金光文和さん
クラシック音楽の演奏から時代を感じとることができないだろうか?
世の安定期に安定した音がするとか、逆に、革新的な演奏が多いという意味ではない。世相に左右されない、凛とした演奏姿勢に、却って、時代を感じとる。たとえは不適切かもしれないが、戦時下、ベルリンで催された演奏会の録音から、戦争の臭いをかぎ取ることはできない。しかし、その様な状況下でその様な演奏会ができたこと、そのようなオーケストラがあったことの意味を、ふと考えた。ベルリン市民は、変わらないオケの響きに、却って今が戦時下のひとときであることを痛感していたのではあるまいか。
オーケストラから云えば、どのような社会情勢の変化にも負けず音を守り抜き、更に発展させる姿勢。その姿勢が、聴き手に、その時代を生きていく勇気を分け与えることになると云ったらいい過ぎか。
前置きが長くなってしまった。
N−14席で聴いた今晩の大阪シンフォニカーの演奏会。よく知られた名曲2曲。
第1ヴァイオリン6名、第2ヴァイオリン6名が左右に分かれる。間にチェロ、ビオラ各4名。第1ウ゛ァイオリンの後ろにコントラバス2名。バブアゼ氏、ケオシヴィリ氏らグルジア・ルーマニアの音楽家達にリードされた馥郁とした響きの弦楽器。素晴らしいホルン。味わい深いオーボエ。・・・そこに、才気にあふれたヴァイオリンの独奏が加わって、もう一つのメインプログラムが始まった。
第1楽章で、少しざわつきのあった聴き手が、水を打ったように沈黙した第3楽章の独奏部。自在に弓を操る谷本氏の紬出す響きとわれわれとが一つに結ばれた瞬間。ヨーロッパのホールで聴く響きもかくや・・・と思った得難いひととき。谷本氏とわれわれにこうした機会を与えてくれたプロデューサーにも拍手。
こうした響きについての印象は、次の第9交響曲にもちこされた。
モーツァルトの時と同じく、ふたつのヴァイオリンパートが分かれる配置。楽器間の掛け合いをおもしろく聴かせる室内楽的なサウンド。要所をしめるティンパニの強打。もったいぶらない、快適なテンポ。プログラム解説の中村孝義氏が言われる「古楽奏法」に通じた演奏なのか。ベーレンライター版といえば、当地でも、2つのオーケストラでチクルスが進行中。そのなかで、今日、こういう演奏で名曲を味わえる幸せ。
景気・不景気などといった、毎日の営みに少し疲れたわれわれに勇気を与えてくれる響き。体制、価値観の移ろいやすい今という時代にあって・・・という帰宅途上の感想が、冒頭の前置きになった次第。
本名徹次氏。名古屋フィルとのベトナム公演の放送をみたのが、つい、この間。氏のステージは初めてだけど、広い活動の場を持たれる氏の名声に納得した気持ち。
来年、新音楽監督が指揮されるこの公演。オーケストラ配置を含めて、今から楽しみだ。それにしても、その時を、われわれはどんな世相のなかで迎えるのだろうか。
重盛牧夫さん
いよいよ今年聞き納めのコンサート、前回の定演は仕事の都合で聞き逃したので、10月の名曲コンサート「カルミナ」以来のシンフォニカーである。事務局長に伺ったところでは、聞き逃した定演で昨年に引き続いて大阪府文化祭賞を受賞されたとのこと、心よりお祝いを申し上げたい。
さて今回はカップリングが例年のピアノ協奏曲と異なり、バイオリン協奏曲に替わっていたが、名曲コンサートで外見そのままの爽やかなメンデルスゾーンを聴かせてくれた谷本さんの再登場、そしておそらく最後になるであろう「本名:大阪シンフォニカーの第九」である。 前回聴いた印象から、谷本さんとモーツァルトというのはかなり相性が良いのではないかと思っていたが、やはり見事だった。クセのないよく通る音色が、作品にぴったりあっていたと思う。3番や5番に比べ、演奏される機会の少ない1番ではあるが、奇を衒わない淡々とした演奏には、非常に好感が持てる。演奏が終わった時には、何かほっとしているように見えたが、演奏中はそんな緊張感を全く感じさせなかった。なお、演奏とは全く関係ないが、大変映えるステージ衣装だったものの、個人的には谷本さんのボーイッシュな印象とはマッチしていなかったように感じたのは、私だけだったろうか。
例によってソロを浮き立たせるバックのサポートはいつも好ましいが、何よりも本名氏の見事なテンポ感覚に裏打ちされたモーツァルトは、やはり独特のものがある。一見(一聴)特徴がないように感じさせるかもしれないが、この端正な曲作りは、後のベートヴェンとの対比で絶妙の組み合わせになっているなと感じる。 さて、第九。昨年の刺激的な見事な演奏が、今年はどう変貌しているのかも興味の1つだったが、今回は本名氏の意気込みがやや空回りしていた部分があったように感じた。氏の第九を無理を承知で一言で表現すると、一気呵成という言葉が頭に浮かぶ。もちろんかなり早めのテンポがその理由であるが、テンポが早くてもアンサンブルの緻密な音楽作りが氏の特徴と感じており、それがモーツァルトや近・現代音楽における名演を生み出してきた。しかし今回はそれがぎりぎりのところで、部分的に破綻が見られたように思う。オケが指揮者の勢いに付いていけなかったような感じなのだ。終楽章ではそれが顕著で、珍しく管楽器陣に粗さが見られ、ハーモニーの混濁ともいえるフレーズが散見されたのは残念だった。
とはいえ、それが全曲を覆っていたわけではなく、第二楽章のスコアが透けて見えてくるような、透明なアンサンブルは相変わらず見事だった。昨年に比べて格段の進歩を感じた合唱陣、その合唱陣のパワーに引けを取らない存在感を示した独唱陣、燃えるような勢いを発揮したオケも含め、やはり「本名:大阪シンフォニカーの第九」であったことは確かだ。 思えば発展途上の大阪シンフォニカーから、ライカンをソロに仕立てて見事な色彩感を引きずり出した「シェエラザード」の名演以来の、本名氏とシンフォニカーの関係が、4月以降は希薄になってしまうのは非常に残念であるが、離任後も時にはシンフォニカーの指揮台に登場されることを心から望んでいる。
なお、個人的なことではあるが、氏のベートーヴェンに初めて接した折、19世紀的ロマンティシズムの系統を引く、重厚なアプローチがベートーヴェンの正統な解釈ではないかとの私の意見に対し、過去の手垢や厚化粧にまみれたものではなく、素顔の初々しいベートーヴェン解釈を持って世に問いたい、と真摯に御自身の抱負を述べられた。ここ数年のベーレンライター原典版によるベートーヴェンの取り組みはその現れであろうと思うが、お陰で私自身の蒙を啓かれた思いがしており、今まで嫌いだと思っていた音楽も、今は素直に客観的に耳を傾けることができるようになった。氏の離任はもう少し先ではあるが、3月の定演は聴けない可能性もあるので、この場を借りて、心より感謝申し上げる次第である。