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◆大阪シンフォニカー交響楽団第10回東京公演
「ブラームスによる、春の祭典」
大阪シンフォニカー交響楽団の東京公演を3年続けて聴き、3回連続で批評を書かせていただいている。
今日の公演の一番の注目点は、既に1年半前からこのオーケストラのミュージックアドバイザー・首席指揮者である大山平一郎が、手兵を率いての東京デビューで、いかに大山カラーを打ち出すかである。
結論から言うと、これまでこのオーケストラで聞いた音楽、響きとはひと味違った、大山節を堪能できた。
私見だが、いい指揮者には二つのタイプがある。一つは棒さばきも鮮やかにオーケストラをドライブして、わくわくさせてくれるタイプ。そしてもう一つは、棒さばきは派手ではないが、とことん良い音、良い音楽を導き出すタイプ。これはどちらが良くて、どちらが悪いという問題ではなく、そもそも生まれた星の違いだ。大山の指揮は、この後者に属する典型だ。大山はロスアンジェルスフィルの首席ヴィオリストを長年つとめ、ジュリーニなどの巨匠のもとで研鑽した。その指揮は正攻法だが、強い信念にもとづいたどん欲さが感じられた。
今日のプログラムは、ブラームスの三点セットに先立ち、この楽団の委嘱作品である、オランダ人作曲家デ=メイの「祝典ファンファーレ」が演奏された。ブラスアンサンブルに打楽器群が加わる、わずか4分程の作品だが、ワーグナーを思わせる荘厳な響きが会場に広がり、祝典公演が開幕した。
つづいてブラームスの、こちらも祝典の名を冠した序曲が演奏された。ブラームスの作品の中でも異色であるこの序曲は、なかなか説得力のある演奏に出会えないもの。それだけに指揮者も選曲をためらうことが多いと聞くが、この日の大山のプログラミングは、確かな自信が感じられた。卒業式や入学式のシーズン、オリンピックの興奮覚めやらない日曜午後の公演、そして第10回目の東京公演。一年に一回だけこの祝典序曲を聴くとしたら、この日以外にはないというプログラミングに敬意を表する。
楽器は奏するものではなく、楽器が自ら歌うもの。このような経験をしたのが、竹澤恭子をソリストに迎えての、名曲の誉れ高い「ヴァイオリン協奏曲」だった。それほどに竹澤の1710年製のストラディヴァリウス(カンポ・セリーチェ)は抜群の鳴りで観客を魅了した。長大な第一楽章の前半は、今ひとつ調子に乗らない感じは受けたが、第2楽章の後半からは、正に天上の音楽だった。第3楽章に入り、ブラームスの手による2拍子のワルツは舞台と客席を躍動させた。
本番直後のスナップです。おそらく大山は、ブラームスが語った「チェロとビオラの間に、もう一つ楽器が欲しい。」という言葉を意識していたと察する。近年のこのオーケストラの進歩は、一言で言うと弦楽グループの充実だ。楽譜に書いてある一つの音を、いい音で、全員が十分鳴らす。この基本的なことを徹底させた成果は、今日の交響曲第4番の凱旋により証明された。第一楽章の終盤の盛り上がり。分厚い第2楽章の弦楽の響き。ちりばめられた管楽器のソロ。最終楽章シャコンヌの集中度。第10回の東京公演のメモリアルとしては申し分のない演奏と言えよう。
なお、アンコールとして、バッハのカンタータBWV150から冒頭の曲が演奏された。おそらくほとんどの観客にとって初めて耳にする曲であり、また何故この曲が選曲されたか疑問であろう。
これは指揮者の大山から観客への謎掛けである。その答えは、ブラームスがこのカンタータから最終楽章シャコンヌのテーマを拝借したということだ。次の謎を解く機会を待ち望む。(2006年3月12日すみだトリフォニーホール)
MSさん