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◆大阪シンフォニカー交響楽団第106回定期演奏会
定期演奏会に初登場の広上淳一は、国内はもとより海外でも着実に評価を高めている中堅指揮者である。それだけに期待は大きかったのだが、残念ながら予想を上回るほどの出来とはならなかった。
冒頭に演奏されたブラームスの「悲劇的序曲」は、広上らしい大変に威勢の良い演奏で、機能的には良く整っているし、ダイナミックな表情にも不足しないが、優等生的にきちんと音にしたという以上の感銘を覚えることはできなかった。角のあるリズムの強調が目立ち、楽想の変化に対応した表情や響きの色合いなどもあまり認められなかったからだろう。ある意味では明朗というか明快そのもののと言えるのだろうが、ブラームスらしい落ち着いた情感が欲しいと思われた。
2曲目は、モーツァルト・イヤーに因んでのプログラミングだろうか、モーツァルトのクラリネット協奏曲が演奏された。独奏は、これも国際的に評価の高い赤坂達三である。彼は大変に堅実なテクニックと美しい音を持っており、その意味では文句なく巧いと言えるクラリネット奏者である。ただ表現は、見事に端正にまとめられたというだけで、心を振るわせるほどの感動を呼び覚ますことはなかった。確かにデリケートにコントロールされた弱音などは印象に残るが、この曲の憧れに満ちたような美しさにまでは到達していない。また、世界的に活躍するクラリネット奏者ならば、この曲くらいとうの昔に暗譜していそうなものだが、今回の赤坂は楽譜を見ながらの演奏。楽譜を立てること自体に文句は言わないが、それならそれで楽譜を置いたからこそ可能な清新な表現があって然るべきだろう。また第1楽章終わりで、独奏パートが終わった時点で、オーケストラが後奏を演奏しているにもかかわらず、彼は楽器の掃除を始めてしまった。自分のパートは終わったとは言え、共に演奏している独奏者らしからぬ行いと言える。オーケストラは、ブラームスほど威勢は良くなかったが、やはりカッチリとまとめられているだけで、音楽の流れに滑らかさ、優美さがなかった。
最後はショスタコーヴィチの交響曲第1番だったが、前半の演奏から広上にはこの曲が最も合っていそうに思えた。そして最初のうちは、意外とおとなしい表現で、今ひとつ乗りの悪さが感じられたものの、楽章が進むほどに表情が濃くなり、特に第3楽章以降はかなり楽しめた。唐突な気分や楽想の変化が至る所にある曲だけに、その変わり身の速さのようなところが、広上のダイナミックな表現力に良くマッチしていたからだろう。また管楽器のソロが目立つ曲でもあり、加えて弦楽器のソロもちりばめられているわけだが、それぞれの奏者がいずれもその責を的確に全うしたことも、好演における大切な要素として挙げておこう。
(1月20日・ザ・シンフォニーホール)(C)福 本 健