2010年03月20日第13回東京公演〜曲目解説

 ウォルトン
 バレエ組曲「賢い乙女たち」(バッハの曲による)

 ヴォーン=ウィリアムズ(1872-1958)亡きあと、イギリス作曲界に文字どおり君臨することになったウィリアム・ウォルトン(1902-1983)。彼が、ロンドンのサドラーズ・ウェルズ劇場から「賢い乙女たち」を題材にしたバレエ音楽を委嘱されたのは、1940年のことだった。賢い乙女たちとは、誰のことか?
 出典は、新約聖書の「マタイによる福音書」第25章。そこにはこんな、たとえ話がある。
 婚礼の儀を、花婿の実家で夜間にもよおす習慣があった頃のこと。花嫁は、花婿みずからが迎えにゆくのだが、あるとき、その迎えのお供を許された乙女たち10人がいた。うち5人は、ともし火のみならず、油壺をたずさえて赴いた。いっぽう、残る5人の乙女たちは、愚かにも、ともし火は持っていったが油の用意をしていなかった。
 さて、乙女たちは花婿の家につく。ところが、花婿がなかなか出てこない。そのうちに眠気がさし、みな眠ってしまった。すると真夜中になって、「花婿だ、迎えに出なさい」という声がする。しかし、愚かな乙女たちの持っていたともし火は、いまにも消えてしまいそう。彼女らは、賢い乙女たち5人に油を分けてくれないかと頼む。賢い乙女たちは答えた。
 「『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かな乙女たちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかの乙女たちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(新共同訳「新約聖書」より)
 終末のときは近い。だが、救世主の再来は必ずある。それに備え、いかなるときでも信仰心を絶やさぬように。イエスはこの教えを垂れたのち、間もなく捕えられることになる――。1940年といえば、第二次世界大戦まっただ中。ロンドンの劇場がこれを作品化しようと思い立ったことの意味を、考えないわけにはゆかない。
 構想は振付家フレデリック・アシュトンによるもので、指揮者コンスタント・ランバートが、このプロジェクトのためにJ. S. バッハのおもにカンタータから8曲(9曲?)を選び出し、ウォルトンにそれらを管弦楽曲に編曲するよう依頼したという。初演は同年4月、ニネット・ド・ヴァロア演出、レックス・ウィストラー舞台美術、マーゴット・フォンティーン、マイケル・サムズの主演で行われた。全曲版は残念ながら現存しないが、今日は、同年に作曲者自身が編んだ6曲からなる組曲版を聴く。もととなったバッハの原曲を、以下に挙げておこう。
第1曲「神なしたもう御業こそいと善けれ」BWV99から冒頭の合唱曲
第2曲 オルガンによるコラール前奏曲「わが心の切なる願い」BWV727
第3曲「われは善き牧者なり」BWV85から第5曲アリア「見よ、愛のなすところを」
第4曲「ああいかにはかなき、ああいかにむなしき」BWV26から冒頭の合唱曲
第5曲「楽しき狩こそわが悦び」BWV208から第9曲アリア「羊たちは安らかに草をはみ」
第6曲「主を頌めまつれ」BWV129から終曲
 ウォルトンは、自己批判があまりにも厳しく、残された作品は少ないが、交響曲第1番(1935)をはじめ、そのどれもが、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、シェーンベルクら同時代人からうけた影響をとどめつつ独創性にあふれている。「賢い乙女たち」では、大管弦楽をもちいながらもバッハ音楽の敬虔な感情と鮮やかな対位法を少しもそこなわないオーケストレーションが、とりわけ見事である。

 R. シュトラウス
 クープランのクラヴサン曲による小管弦楽のためのディヴェルティメント 作品86

 バロック音楽は今でこそ広く親しまれているが、それが「再発見」されたのは、意外に最近のこと。バッハはそれでも、すでに19世紀前半においてメンデルスゾーンなどの紹介者を得ることができた。しかしフランソワ・クープラン(1668-1733)となると、かなり遅い。
 本国フランスにおいてさえ、自国音楽の祖としてはっきり自覚されたのは、ようやく19世紀の終わりから20世紀にかけてのこと。ドビュッシー、ラヴェル、デュカスらが光をあてた。隣国ドイツでは、たとえば1904年、クラヴサン(=チェンバロ[独]、ハープシコード[英])演奏で有名なワンダ・ランドフスカがベルリンでコンサートを開いた時点でも、クープランはまだ珍曲のたぐいであった。そもそも、クラヴサンそのものが忘れられた楽器だったのだ。
 ミュンヘン生まれのドイツ人、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)は、ランドフスカが催したその1904年のベルリン演奏会を聴いている。親交のあったフランスの作家ロマン・ロランが、この演奏会に注目するようシュトラウスを促したのだった。ロランこそ、シュトラウスの目をフランス芸術に向けさせた人である。1900年の春には、ルーヴル美術館にも案内してもらっている。そこで見たアントワーヌ・ヴァトーの「シテール島への船出」に感銘を受けたシュトラウスは、シテールの名を冠した3幕のバレエを書こうと計画、結局これは完成しなかったが、この機に芽生えたフランス・バロック、ロココへの関心は、1917年作の《町人貴族》で音楽に反映されることになる。モリエール原作・ホフマンスタール翻案のこの喜劇のために、18世紀フランスふうの舞曲を書いたのだ。「ふう」というところがミソで、室内楽的手法をとっているとはいえ、すべては紛れもなく近代管弦楽法の巨匠シュトラウスのものである。
 さて、本日聴く《ディヴェルティメント》も、こうした系譜に連なる最後の作品にあたるのだが、クープランのクラヴサン曲(全4巻中に200曲以上ある)を直接素材にしている点が、《町人貴族》などとは異なっている。
 この作品には前史がある。まずは1923年。ウィーン国立歌劇場の監督職にあったシュトラウスは、振付家の依頼を受けて、同劇場が催すバレエのゆうべ用に作曲する。クープランのクラヴサン音楽をパッチワークしてR. シュトラウスという衣装でくるんだこの作品は、同年2月17日にクレメンス・クラウスの指揮で初演され、同年《舞踏組曲》として出版された。
 そして、1940年。今度はそのクラウスが、バイエルン国立歌劇場総支配人の立場でシュトラウスに打診する。《舞踏組曲》をまたやりたい。こんどはクープラン時代の振付けを模して上演する。ついてはこの機会に2曲ほど書き加えてくれないか――。シュトラウスはこれを受けて6曲を書き足し、「過ぎ去りし祝祭」と銘打たれその一夜が、1941年4月5日にもたれた。その翌年、さらに2曲を足し出版されたのが、本日聴く《ディヴェルティメント》作品86である。初演は1943年1月31日、やはりクラウスの指揮で、ウィーン・フィルによって行なわれた。
 各種打楽器、チェレスタやクラヴサン(!)も加わるが、弦楽の人数は刈り込まれており、響きは思いのほか透明。クープランの原曲には、どれも人を食ったような標題が付いており、シュトラウスもこの作品86ではそれを掲げている。標題を真に受ける必要はないのだが、とにかく面白いので、ここに列挙しておこう。
第1部:空想にふける女、第2部:ショワジのミュゼット/利口なマドロン/優しいシャヌトン/セジル夫人/居酒屋のミュゼット、第3部:ティク・トク・ショック/いたずらな女、第4部:嘆きのほおじろ、第5部:トロフィー/うなぎ/若殿様/おじけた紅ひわ、第6部:奇術、第7部:さまよう亡霊たち、第8部:がらくた/おどけた女

 グラズノフ
 交響曲 第5番 変ロ長調 作品55

 「その進歩ぶりは、日ごとにというより、時間ごとにという感じだった」若きアレクサンドル・グラズノフ(1865-1936)の才能に感嘆し、彼の個人教師をつとめたリムスキー=コルサコフのことばである。彼は、自身もそこに属していたいわゆる「ロシア5人組」の元指導者、バラキレフを介して、この神童を知ったのだった。そのリムスキー=コルサコフに捧げられたグラズノフの交響曲第1番が、バラキレフの指揮によって1882年3月29日に初演されると、ペテルブルクの楽壇は仰天した。この完成度で、まだ16歳だなんて!
 そんな早熟ぶりが讃えられる一方で、グラズノフは、その後半生に関する限り、かならずしも評判が良いとはいえない。ロシア/ソ連の後の世代にとって、彼はたんにペテルブルク音楽院の院長であり、アカデミックな伝統主義の権化にすぎなかった。プロコフィエフは、不協和音に顔をしかめるグラズノフのことを可笑しげに回想しているし、ショスタコーヴィチも、世話になったこの教師の奇妙な酒癖について記している。もっとも、10月革命(1917年)以降の混乱期にあった音楽院を支え、生活苦にあえぐ学生たちの面倒を熱心にみたことも、ショスタコーヴィチは忘れていないのだが。
 グラズノフ作品は、要するに、帝政期の美学に刻印されていたといえる。その全盛期は、アレキサンドル3世がロシア皇帝に就いた1881年から、ロシア第一革命の1905年ころまで。これは、彼の全8曲の交響曲が書かれた時期ときれいに重なる(第9交響曲は未完)。バレエ音楽が続いた本日、《ライモンダ》(1897年や《四季》(1899年)など、その方面での傑作もぜひ挙げたいところだが、彼の作風を俯瞰するとなれば、交響曲群は格好のジャンルだろう。グラズノフはなんといっても管弦楽法に長けていた。
 堂に入った対位法ひとつとっても、やはり第8交響曲が最高傑作となろう。しかし、これから聴く第5番もまた、一個のマイルストーンと呼ぶにふさわしい作品である。汎スラヴ的・ロシア的要素のめだつ最初の2つの交響曲は、「ロシア5人組」からの影響が濃厚。そして第3番で、西欧派と目されるチャイコフスキーからの影響を明らかにした。第4番は、そうした二大潮流の統合とみなせようか。あえて緩徐楽章を加えず3楽章構成で挑んだあたりも、この曲は野心的だ(ほかの7曲はすべて4楽章形式)。そして第5番がくる。
第1楽章 モデラート・マエストーソ−アレグロ 変ロ長調:ゆったりとした序奏の冒頭に現れる、中低音楽器による斉奏にご注目。これはこの楽章のモットーとも萌芽ともいうべきもので、アレグロの主部に入ってから現れる第1主題も第2主題も、つまるところこのモットーの変形とみなせる。異なるものの「対立」を構成原理としないのだ。4/4拍子の序奏がいつのまにか3/4拍子の主部に移行しているあたりもそう(冒頭のモットーにすでに3拍子的な運動が潜んでいる)。それでいて単調さに陥らないのが不思議。
第2楽章 モデラート ト短調:スケルツォと明示された楽章。ただしベートーヴェンやブルックナーの交響曲のようなそれではなく、その幻想的な味わいは、メンデルスゾーン《真夏の夜の夢》のスケルツォなどに近い。
第3楽章 アンダンテ 変ホ長調:穏やかで、歌に満ちた、たいへん美しい楽章。ヴィオラやチェロがセクション内で多声部に分かれ、ハーモニーはワーグナーをも思わす精妙さだ(グラズノフは1884年にバイロイト音楽祭のワーグナー《パルジファル》上演を訪れている)。
第4楽章 アレグロ・マエストーソ 変ロ長調:シンバルも華やかに鳴りわたる、活気に満ちたフィナーレ。この楽章で要となるのはリズムである。幾つかの基本リズムが、さまざまに展開され、組み合わされ、前へ前へと進む。速度を上げてシンコペーションが著しくなるところは、展開部にあたる。
 初演は、1897年2月17日、ペテルブルクにて、作曲者自身の指揮で。すぐさま人気を博し、同じ年にもうロンドンでもグラズノフの指揮で演奏されている。

(C) 舩木篤也(無断転載を禁ずる)


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