2009年06月19日第136回定期演奏会〜曲目解説いま、児玉宏と大阪シンフォニカー交響楽団の組み合わせが、とにかく面白い。刺激的なプログラミングに「次は一体、何を聴かせてくれるのか」とワクワク、ドキドキ待ち焦がれる聴衆が増殖中だ。児玉の挑戦は、ただ決まったレパートリーを漫然と繰り返している我が国のコンサートの在り方自体に風穴を開けるものだ。しかし、単に「珍しい作品を演奏する」というだけでは、決して聴衆を満足させられはしない。ドイツの伝統の中でキャリアを重ねてきた児玉だからこそ、この挑戦は大きな説得力を持つ。
(C)寺西 肇(音楽ジャーナリスト) (無断転載を禁ずる)
今回のステージで児玉が取り上げるのは、かのリヒャルト・ワーグナーの長男で今年が生誕140年となるジークフリート・ワーグナーと、不朽の名曲であるヴァイオリン協奏曲を遺したマックス・ブルッフの作品。両者とも生前は音楽家として高い名声を誇ったが、その作品のほとんどは現在、音楽史の彼方へと置き去りにされている。そんな忘れられた佳品に、児玉のタクトと大阪シンフォニカー響が、どのように新たな生命を吹き込むのかが楽しみだ。さて、今宵もそろそろ、児玉が開け放つ未知の世界への扉の向こうへと、旅立つことにしよう。
◆ジークフリート・ワーグナー(1869〜1930)
ジークフリート・ワーグナーは、大作曲家リヒャルト・ワーグナー(1813〜83)と妻コージマ(1837〜1930)の長男として、スイスのチューリッヒで生まれた。母方の祖父はやはり大作曲家のフランツ・リスト(1816〜81)。既に56歳になっていた父親は、息子の誕生をことのほか喜び、幸福感に満ちた佳曲《ジークフリート牧歌》(1870)を書いている。12歳で祖父から和声学を学ぶなど早くから音楽教育を受け、20歳からは父親の弟子であり、歌劇《ヘンゼルとグレーテル》でも知られるエンゲルベルト・フンパーディンク(1854〜1921)に音楽理論と対位法を学んだ。しかし、父親は決して音楽家になることを強要しなかった。ジークフリートは音楽の勉強を続けつつも、ベルリンとカールスルーエで建築学を学んだ。しかし1892年、友人のイギリス人作曲家でピアニストのクレメント・ヒュー・ギルバート・ハリス(1871〜97)を伴っての東アジアへの旅行をきっかけに建築の道を諦め、音楽の道に進むことを決意した。
ジークフリートの功績は、まずバイロイト音楽祭における父リヒャルトの作品の指揮者・演出家としての活動が挙げられる。1896年にリング全曲でデビューし、母コージマが引退後の1908年には音楽祭の終身芸術監督に就任。特に、第一次大戦後に開かれた音楽祭では、簡素な舞台装置に最新の照明技術を用いて聴衆のイマジネーションに訴えかけるような、今日のバイロイトにも引き継がれている斬新な演出を採り入れた。
作曲家としては、自ら台本も手掛けた歌劇をはじめ、《交響曲ハ長調》(1925)や交響詩、協奏曲など多くの作品をのこしている。生前は何度か再演されたようだが、死後は忘れ去られた。それは、第二次世界大戦に向かうドイツの不幸な歴史の中で、父親の作品が政治的に利用され、戦後は一部の人にとって嫌悪の対象となったこととは決して無縁ではないだろう。実際にはジークフリート本人はナチス政権と距離を置いていたものの、イギリス人の妻、ヴィニフレート(1897〜1980)がヒトラー一派と親しい関係にあったことも、この誤解に拍車をかけた。
しかし、作風的には父よりもむしろ師フンパーディンクの影響が色濃く、童話的で人懐こい表情を見せている。それは、傲慢で偏見に満ちた父親とは対照的に、誰からも好かれた人柄の良さも大いに影響しているだろう。それは、蔓延するファシズムに対して公然と抵抗の姿勢を示したイタリアの大指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867〜1957)ですら、ジークフリートの依頼には応じ、バイロイト音楽祭への出演を承諾したほど。もっとも、そのステージが実現したのは、ジークフリートの死の4日後のことだった。
■歌劇《異教徒の王》間奏曲《信仰》
《異教徒の王》は、1913年に作曲された全3幕のオペラ。物語は16世紀、プロシアに征服されたポーランドが舞台。異教徒プロシアとカトリックであるポーランドの劇的な戦いに宗教者の在り方を絡めて、「何を拠り所として信仰をするのか」という疑問を突き詰めてゆく。さらに、因習的な観点では不純とみなされるような新たな流行や考え方に共感を覚えるが故に、自らが真に伝統的な宗教の代表者なのかと疑念を抱く王ラダマールは、一種の権威の象徴となったバイロイトに、新たな風を送り込もうと奮闘したジークフリート自身の姿を投影しているかのようだ。
このホ長調の間奏曲は、第1幕のプレリュードへとつながってゆく。コラール風のゆったりとした主題での「アンダンテ・レリジョーソ(敬虔に)」との指示は、《信仰》というタイトル自体と密接なつながりがある。たゆたうような副主題は信仰者の魂の迷いを示し、曲も中盤を過ぎると、最初のコラール主題がより力強くトゥッティで奏される。そして最後、静かにホルンでいま一度繰り返されるコラールが魂の救済を告げる。
ジークフリート自身は生前、この作品を全曲通して聴くことは一度もなかった。ただ、この間奏曲を含めた抜粋版を演奏会形式で耳にしてはいる。全曲初演は作曲から20年後、ケルンで行われた。児玉は普段からこの作品をレパートリーとしても大切にしており、ゾーリンゲン市立交響楽団やポーランド室内合唱団などと録音した全曲盤(MARCO POLO)は今のところ世界で唯一。演奏自体も高い評価を得ている。
■交響詩《幸福》
この作品は1923年、当時ドイツを代表する詩人の一人だったシュテファン・ゲオルク(1868〜1933)の作品に触発されて書かれた。女神フォルトゥーナの「何を幸福と呼ぶのか」の問い掛けに呼応して、人がさまざまな幸福の姿を追い求めてゆくとの内容を音楽化したもので、友人のクレメント・ハリス(バイオグラフィー参照)に捧げられた。前後数年にわたって、「幸福とは何か」という究極の疑問にとらわれ、自らの作品の中心テーマに据えていたジークフリートが導き出したひとつの答えだったのだろう。
初演は作曲された年の10月に作者自身の指揮によりミュンヘンで行われる予定だったが、折しも当地で起きたヒトラーのドイツ闘争連盟によるクーデターにより延期。同年12月に当地で改めて行われた。
曲は6つの部分からなる。父リヒャルトの《トリスタンとイゾルデ》第1幕へのプレリュードを想起させる変ホ長調の静謐なアンダンテで始まり、「金と権力への欲望による幸福」と題された第2の部分は、不気味に絡み合う管と弦が、どろどろとした欲望を表現。続く「“俗物”−幸福」では、陳腐でコミカルな行進曲が、小市民的な幸福を皮肉る。そして、輝かしさの中に、どこか虚しさを秘めている「官能的な快楽による幸福」。「精神世界との接触による幸福」は 神秘的ではあるが、現実との隔絶を感じさせる。そして、最後には「真の幸福:幸福をもたらす行いが、人間たるべきこと」と、善き行いが栄光の中で称えられる。
◆マックス・ブルッフ(1838〜1920)
今も圧倒的な人気を誇る名曲《ヴァイオリン協奏曲第1番》でのみ、ブルッフの名を知る向きがほとんどだろう。音楽をよくご存じの方でもう2曲、《スコットランド幻想曲》と《コル・ニドライ》を挙げるくらいか。しかし、彼は決して“一発屋”ではない。かつてはヨハネス・ブラームスと凌ぎを削り、欧米諸国の楽壇から称賛を受けていた、ドイツ・ロマン派を代表する人気作曲家のひとりであった。
ケルンの警察高官の家に生まれ、早くから音楽教師でソプラノ歌手でもある母親から英才教育を受けたブルッフは、11歳で室内楽や管弦楽曲を作曲。3年後には、弦楽四重奏曲でフランクフルトのモーツァルト財団から賞を贈られた。その早熟ぶりは、メンデルスゾーンを彷彿させる。彼は、そのメンデルスゾーンと親しかったフェルディナント・ヒラー(1811〜85)や、教育者としても知られたカール・ライネッケ(1824〜1911)に師事し、地元ケルンで音楽教師になった。しかし、自らの創作活動のために職を辞し、ドイツ各地を放浪の後、マンハイムに住み、歌劇《ローレライ》(1863)などで成功を収めた。
彼の名を不動のものにしたヴァイオリン協奏曲ト短調を作曲したのは28歳、コブレンツのカペルマイスター時代だった。翌年からゾンダースハウゼンの宮廷指揮者となり、ベルリンやボンを経て、1880年から3年間はイギリスのリヴァプール管弦楽団の音楽監督を務めた。ドイツ帰国後はブレスラウ演奏協会の指揮者として活躍の後、ベルリン高等音楽院のマスタークラスで指導。ドイツ留学した山田耕筰(1886〜1965)も教えている。1910年に一切の公職から身を引き、没するまでをフリーデナウで過ごした。
ブルッフは作曲家としても、ブラームスと並ぶ名声を得ていた。と言うより、少なくとも1880年代前半までは凌いでいた。しかし、ブラームスとはライバルである一方、公私にわたって親密な付き合いがあった。ブラームスの書簡には、名曲《ドイツ・レクイエム》の初演後、晩餐の食卓にブルッフ夫妻がいたことが記されている。ブラームスがブルッフのオペラのソリスト探しに奔走したというようなこともあったらしい。
ブルッフの作品は、室内楽から管弦楽曲、合唱曲、歌劇まで多岐にわたっている。室内楽では1910年出版のクラリネットとヴィオラ、ピアノのための《8つの小品》作品83が特に美しい。交響曲は失われた初期作品を含めて、少なくとも4曲書かれた。ヴァイオリン協奏曲は有名な第1番のほか、2曲が存在する。しかし、その作品の伝承には、ジークフリート・ワーグナーの場合と同様、ドイツ史の陰の部分が付きまとう。《コル・ニドライ》などユダヤ文化に材をとる作品があったため、ブルッフ本人もユダヤの家系と疑われ(実際にそうであったかの確証はない)、ナチス当局から1935年に上演禁止措置となった。この時に“抹殺”された作品の多くが、今なお葬り去られたままになっている。今回のステージは、そんな不遇の佳品を歴史の闇の呪縛から解き放つ機会とも言えよう。
■交響曲第3番 ホ長調 作品51
本作は、アメリカ・ニューヨーク交響楽協会(ニューヨーク・フィルの前身)の指揮者、レオポルド・ダムロッシュ(1832〜85)の委嘱を受け、1882年に完成された。当時、アメリカでは合唱曲を通じて、ブルッフの名は広く知られていた。初演は、作品が完成した年の12月13日にニューヨークで行われ、2ヵ月後にボストンで再演。翌年4月に渡米したブルッフ自身も、ニューヨークでこの曲を指揮した。また、3年後には出版に際して自ら手直しを施している。
作品の素材には、ゾンダースハウゼン期に書いたスケッチを用いていて、出版元のジムロックに対しても、本人が「最も生き生きして、幸せだった青年時代」から生み出された、と説明している。作曲者は当初、タイトルとして《Am Rhein(ラインに)》を考えていたらしい。なるほど、随所にシューマンの交響曲第3番《ライン》に共通するロマンティシズムを感じさせる。そして、調性で自作の歌劇《ローレライ》の序曲、リズムや雰囲気が同作のソプラノのテーマと共通点があることも、決して無縁ではなかろう。
第1楽章は荘重な雰囲気の序奏で始まる。ここでホルンとクラリネットのトップが提示するテーマは、全曲を通じて重要な役割を担う。続くソナタ形式の主部は、ゆったりとしたテーマが手堅く展開され、堂々としたクライマックスを形づくる。
第2楽章では、シューマンやメンデルスゾーンの交響曲の緩徐楽章にも共通する神秘的で美しい旋律が謳い上げられる。コラール風のテーマは変奏ののち、元の姿へとかえる。1888年11月、ブレーメンでこの曲を演奏した大指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830〜94)は、作曲者に対して「このアダージョ楽章は、集中して聴くことが求められる」と語った。
第3楽章は晴れやかで、生命力に満ちている。シンプルな旋律を見通しの利くオーケストレーションと演奏効果の高いリズム遣いで処理し、ブルッフの卓越した手腕を物語る。
最終楽章は、ゆったりと心安らかな旋律と厳しい表情を持った旋律、対照的なふたつのテーマが入れ替わり拮抗しながら展開してゆき、最後は堂々とフィナーレを迎える。