2009年11月25日第140回定期演奏会〜曲目解説

◆ルーセル  シンフォニエッタ 作品52
 アルベール・ルーセル(1869〜1937)は、ベルギーに隣接するフランス北部の町トゥールコワンに生まれた作曲家である。幼くして両親を亡くし、トゥールコワン市長を務めていた祖父に育てられた。
 長ずると海軍兵学校へ進み、一旦は海軍少尉に任命されるが、ルベ音楽院院長のコスジュルからの奨めもあって音楽へと転進。ウジェーヌ・ジグーやヴァンサン・ダンディに学び、作曲家としての道を歩んだ。
 作品の初期こそ印象主義に大きな影響を受けたが、やがて新古典主義を標榜した独自の方向性を見出した。それは形式の中にも強烈なリズムを有し、ある程度調性を重んじた特異な作風であった。同時代に活躍したドビュッシーやラヴェル、またストラヴィンスキーなどとも一線を画し、スコラ・カントゥルムで教えたエリック・サティやエドガー・ヴァレーズ、ボフスラフ・マルティヌーにも多大なる影響を与えている。
 1922年ルーセルは、終の棲家となったノルマンディ沿岸のヴァストリヴァルに移り住んだ。常に健康への不安を抱えていたルーセルではあったが、それから数年間の創作意欲は凄まじく、「組曲ヘ長調Op.33」や「小管弦楽のための協奏曲Op.34」、「ピアノ協奏曲Op.36」や「小組曲Op.39」など新古典主義に基づいた作品に加え、「ヴァイオリン・ソナタ第1番」を初めとする室内楽曲など、数多くの傑作を残した。
 1929年にはパリで、作曲家の60歳の誕生日を祝ったルーセル音楽祭がフランス楽壇によって開催されるなど、既にルーセルの名声は国内外に知れ渡っていた。翌年には、ボストン交響楽団の創立50周年記念作として委嘱された「交響曲第3番」の初演のために、アメリカにも渡った。この代表作となった交響曲でも、ルーセルのみずみずしい感性は失われることはなかった。
 その後ルーセルは一時重い肺炎に罹り、死亡説が流布されるほど深刻な局面を迎えたが、それでもほどなく回復すると再び意欲を取り戻し、この「シンフォニエッタ」に着手したのである。1934年7月4日に友人に宛てた手紙には、仕事に戻った喜びと、「アンダンテとアレグロ」に着手したこと、またその作品への熱い想いが綴られている。
 その「アンダンテとアレグロ」の前にひとつの楽章を加え、弦楽オーケストラのための「シンフォニエッタ」は完成した。この作品は、ガストン・プーレと結婚したヴァイオリニストで、後に指揮者として活躍するジェーン・エヴラール(1893〜1984)によって委嘱されたものであり、1934年11月19日、パリのサル・ガヴォーにおいて、エヴラール指揮の女性オーケストラによって初演され、大好評を博した。
 新古典的な装いの中で、ルーセルは復調的和声や特殊なアクセントを指定しながら極めて情熱的な力感を作品に与えており、同時に「交響曲第3番」でも見られるような、古典詩で使用される2つの母音の短い音節の後に1つの母音の長い音節が続く、アナペストと呼ばれる韻脚のひとつを用いて特有の響きを構築している。
第1楽章 アレグロ・モルト
 鋭角的な主旋律の第1ヴァイオリンと、性格的な副声部を形成する第2ヴァイオリンとが、この楽章の統一的なモチーフを担う。ヴィオラ、チェロ、コントラバスは伴奏型で推移するが、有機的に絡み合い、半音階的な線の集積が対位法的な性格を有しながらルーセル独特の響きを創出する。
第2楽章 アンダンテ
 たった37小節の楽章であるが、開放的で五度和声的な響きを醸し、第3楽章の主題のきっかけとなるモチーフが荘重な雰囲気の中に潜んでいる。アタッカで第3楽章に入る。
第3楽章 アレグロ
 快活で躍動的な開始から、鮮やかな展開を見せる。

◆サン=サーンス  ピアノ協奏曲 第5番 ヘ長調 作品103 「エジプト風」
 卓越したピアニストでもあったカミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)は、5曲のピアノ協奏曲を書いた。「ピアノ協奏曲第1番」は1858年(1865年という説もあるが)に、「同第2番」は1868年に、「同第3番」は1869年に、そして「同第4番」は1875年に書かれている。中でも最初の3曲のピアノ・ソナタは、伝統的な形式に根差しながら著しく洗練された語法で書かれており、知的かつ幻想的な風趣で貫かれながら第2帝政時代を支配していた移り気な性格の終楽章を有している。
 ところがこの「同第5番《エジプト風》」は、循環主題的な手法を施した「同第4番」から20年以上時を置いた1896年に完成した。「第4番」を書いた1875年に、40歳になろうとするサン=サーンスは、19歳のマリ・ロール・エミリ・トリュフォと結婚、2人の息子に恵まれるが、長男は2歳のとき5階の窓から転落し、次男は小児病によって相次いで死亡、それを強く夫に非難された妻は突然蒸発、結局は離婚手続きが取られた。
 1888年には、情熱的に愛していた母を亡くし、サン=サーンスは自殺さえ考えるほど鬱屈した日々を送った。そしてついに立ち直れないほどの喪失感に苛まされ続けたサン=サーンスは、従順な下僕のガブリエルとペットの犬を伴って、孤独な放浪者となったのである。それは長期にわたる演奏旅行であり、休暇であり、中でもエジプトとアルジェリアを心休まる場所として好んで立ち寄った。その異国情緒は「管弦楽曲《アルジェリア組曲》」や「協奏的幻想曲《アフリカ》」、そしてこの「ピアノ協奏曲第5番《エジプト風》」に反映されることになる。
 サン=サーンスが、ピアニストとしてパリにデビューしたのは11歳のとき、1846年であった。その音楽活動50周年を祝う記念の会が1896年6月2日にパリのサル・プレイエルで行われたが、この会のためにサン=サーンスが書いたのが、最後のピアノ協奏曲となった「第5番《エジプト風》」なのである。
 この作品においてサン=サーンスは、楽曲構成を司る形式や構築性、また循環主題法などを用いず、思うがままの自由な発想でペンを走らせた。そこにはサン=サーンスが得意とした19世紀ヴィルトゥオーゾ的協奏曲の趣は影を潜め、作曲家としては珍しい、絵画的に描写した異国情緒が濃厚に漂っている。初演のピアノ独奏は、サン=サーンス自らが担った。
第1楽章 アレグロ・アニマート ヘ長調 ソナタ形式
 牧歌的な和音から開始され、ピアノが簡素な第1主題を奏する。この第1主題はオーケストラに引き継がれ、変化していった後に第2主題が現れる。展開部、華やかな再現部を経てコーダでは第2主題をピアノが歌う。
第2楽章 アンダンテ 二短調
 エジプト風と表される楽章である。オーケストラによるシンコペーションのリズムに乗って、エキゾティックな主題をピアノが弾き始める。続いて極めてラプソディックな旋律をピアノが歌い、モノローグのように移ろっていく。ト長調に変わる中間部のアレグレット・トランクイロ・クワジ・アンダンティーノでは、サン=サーンスがナイル川流域のヌビア地方で聴いたという愛の歌によるメロディが切々と歌われる。
 ピアノの短いカデンツァとともに最初のシンコペートしたリズムが戻り、消え入るように楽章を閉じる。
第3楽章 モルト・アレグロ ヘ長調
 ピアノによる軽やかで颯爽とした第1主題は、いかにもトッカータ風である。弦楽による第2主題が現れて展開部、再現部と徐々に盛り上がりながら進み、堂々たるクライマックスで全曲を閉じる。

◆オネゲル  交響曲 第3番 「典礼風」
 フランス6人組のひとりであるアルテュール・オネゲル(1892〜1955)は、30曲近くに上る映画音楽やラジオなど新しいメディアの音楽を含む、意欲的な作曲活動を展開した。それは歌劇やバレエ音楽、劇音楽や5曲の交響曲、映画や劇音楽からの管弦楽組曲、交響詩など多数の管弦楽曲、協奏的作品や弦楽四重奏曲などの室内楽曲、ピアノ作品、合唱曲、そして声楽曲と、あらゆる分野に亘っている。
 またその手法は著しく積極的であり、グレゴリオ聖歌やプロテスタントの賛美歌、十二音技法からジャズに至るまで、貪欲に採り入れて作品に生かした。その中で、無調音楽に一切興味を抱かなかったのは実に興味深い。オネゲルが掲げた作曲家としての究極の目的は、“正直な職人として、正直な作品を生み出すこと”であり、ゆえに題材を蒸気機関車に採った「交響的運動(楽章)第1番《パソフィック231》」が人気を得てもさほど喜ばず、むしろ続編の「同第2番《ラグビー》」のように絶対音楽として受け取られることを望み、「交響的楽章第3番」には敢えて具体的なタイトルを施さなかった。
 オネゲルの最初の成功は1921年のオラトリオ「ダヴィデ王」である。この名声によりオネゲルは、「劇的オラトリオ《火刑台上のジャンヌ・ダルク》」など大規模な傑作を次々に手掛けた。前述の《パソフィック231》は、機械的なリズム運動を、バッハのコラール変奏曲形式で表現した試みとして高く評価され、続いて作曲した「交響曲第1番」も、その躍動するリズムの語法を受け継いでいる。ちなみに「交響曲第1番」は、先のルーセルの「交響曲第3番」と同様、ボストン交響楽団の創立五十周年記念のために、当時の指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーから委嘱されたものであり、式典のためにストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ヒンデミットも曲を書いている。
 「交響曲第1番」から10年を経て1941年に「交響曲第2番」を書いたオネゲルは、その後の10年で3曲の交響曲を完成させた。「交響曲第3番《典礼風》」は1946年に、スイスのバーゼル室内交響楽団創立20周年記念のための「交響曲第4番《バーゼルの歓び》」は1947年に、そしてクーセヴィツキー財団のため、ナタリー・クーセヴィツキー夫人の霊に捧げられた「交響曲第5番」は1950年に作曲されている。
 さて「交響曲第3番《典礼風》」である。この交響曲の第1楽章は「怒りの日」であり、第2楽章は「深き淵よりわれ叫びぬ」であり、第3楽章は「われらに平和を与え給え」である。つまりはカトリックの典礼音楽である死者のための「レクイエム」から表題を採ってはいるが、グレゴリオ聖歌の旋律を用いているわけではない。作曲年代からして、第二次世界大戦による戦没者への鎮魂ではないかという説もあり、確かにそういう意味も込められているのには違いないが、その実オネゲルの残したオラトリオなどを俯瞰すると、敬虔なカトリック信者としての信仰が一連の圧倒的な作品を生み出してきたと考えるのがもっとも自然であろう。
 戦争中も疎開することなくフランスに留まり、戦争の悲惨さ、苦悩を目の当たりにしていたオネゲルが、宗教や哲学的な境地からの人間の叫びを神に向って発したとも考えられ、実際に“周囲の盲目的な力にさらされる人間の孤独と、訪れる幸福感、平和への愛、宗教的な安堵感との間の戦いを、音楽によって表そうとした”とも語っている。
 1946年8月1日、オネゲルと常に緊密な関係を持ち続けたスイスのチューリッヒにおいて、シャルル・ミュンシュによって初演され、そして献呈された。
第1楽章 「怒りの日」 アレグロ・マルカート
 ソナタ形式であり、荒々しい激情と神の怒りに対する人間の畏怖とが、オーケストラの咆哮によって極めてドラマティックに描かれ、執拗なリズムは苦痛に満ちたカオスを生み出す。
第2楽章 「深き淵よりわれ叫びぬ」 アダージョ
 深々とした哀訴と霊感に満ち、沈痛な叙情に支配された楽章である。旧約聖書の詩篇第129番に現われる「深き淵より」のモチーフが現れ、フルートによる「鳥の歌」が導き出される。
第3楽章 「我らに平和を与え給え」 アンダンテ
 重々しい葬送のような行進でゆったりと始められる。絶望からの祈りがリズミックに歌い継がれ、圧倒的な爆発を経て静謐なアダージョへと続き、コーダに入ると第2楽章の「鳥の歌」が再現され、明るい曲調の中で全曲を結ぶ。

(C) 真嶋 雄大(音楽評論)(無断転載を禁ずる)


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