2010年02月10日第142回定期演奏会〜曲目解説

 ベートーヴェン 
 交響曲 第8番 ヘ長調 作品93

 かの有名な「ベト7」、つまり交響曲第7番とほぼ同時期(1811‐12)に作曲された。非公開の初演は1813年、公開初演は翌14年。後者においては交響曲第7番の再々々演もおこなわれ、それが交響曲第8番以上の喝采を浴びたことに、ベートーヴェン当人が不満を示した。さらに、交響曲第7番と同じく小ぶりな編成がとられ、演奏時間は30分に満たず、第3楽章は一昔前の古典派の交響曲を彷彿させるメヌエットが出現するという事情も手伝い、何やら目立たぬ作品という評価が定着しているようだが果たしてそうなのか。
 交響曲第8番の特徴は、ワーグナーによって「舞踏の聖化」と呼ばれた交響曲第7番に勝るとも劣らないダンスのリズムに溢れている点。音楽評論家の澤谷夏樹は各楽章を、「クーラント、エコセーズ、メヌエット、ブレ」と例えているが、随所にベートーヴェンならではの捻りが効いている点が聴き逃せない。例えば第3楽章のメヌエット(正確に訳せば「メヌエットのテンポで」)は、もはや宮廷舞踊のメヌエットではなく、農民の踊りに起源を持つレントラーの身振りが濃厚だ。また第2楽章は、パンハルモニコンという自動演奏機械やメトロノームによってベートーヴェンに多大な影響を与えた発明家メルツェルを謳ったカノンと密接な関係があり、機械仕掛を彷彿させるリズムに彩られている。
 ベートーヴェンの交響曲中、fff や ppp といった強弱記号が唯一登場し(普通は ff か pp )、音楽的な振幅がより強く追求されているのもこの作品ならば、それを裏付けるかのように公開初演で交響曲第7番と並びコントラファゴットの増強がおこなわれたのも当作品。オーケストラに対しても交響曲第7番以上に高度な技術が求められており、第3楽章のトリオでホルンの二重奏が高音域を吹いたり、第4楽章の冒頭でヴァイオリンが2組の三連符を高速かつ弱音で奏でたりする箇所は、手に汗握る難所かつ聴き所となっている。

〔楽器編成〕 フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦5部
〔演奏時間〕 約25分

 フランツ・シュミット
 交響曲 第4番 ハ長調

 「ウィーン音楽界の誇る大重鎮」。交響曲第4番を作曲した頃のシュミットを一言で表現するとこうなるだろう。
 交響曲に限っても、ウィーン楽友協会音楽院(音楽アカデミーの前身)を卒業する1896年に完成された交響曲第1番は、ブラームスが深く関わったベートーヴェン賞を受賞する。1927年から28年にかけて書かれた交響曲第3番は、シューベルト没後100年記念作曲コンクールで第二位をとり、当時のオーストリアの作曲家を代表する傑作と讃えられた。ちなみにこの時第一位に輝いたのが、昨年大阪シンフォニカー交響楽団の定期演奏会でも取り上げられたアッテルベリの交響曲第6番、通称「Dollar交響曲」である。
 じっさいシュミットの経歴を見ても、こうした評価を与えられるに相応しい人物だった。幼い頃からピアノやオルガンに親しみ、特にピアニストとして神童ぶりを発揮。やがて楽友協会音楽院でチェロや作曲を学び始める。作曲の師はブルックナーとフックスで、この頃作曲されたハイドンのピアノ協奏曲ニ長調のためのカデンツは、老ブラームスの目に留まった。
 音楽院卒業後はウィーン宮廷歌劇場管弦楽団チェリストとなり、芸術監督に就任したマーラーのもとで演奏活動をおこなう。やがて歌劇場管弦楽団を退団した後は、指揮者や独奏者として活躍するかたわら、音楽アカデミーの校長等教育者としても名を馳せ、ピアノやチェロや作曲の分野で優れた弟子を輩出。また管弦楽曲、室内楽曲、オルガン曲に代表される器楽曲、歌劇『ノートル・ダム』等々、幅広いジャンルの作曲活動に従事した。
 かくして順風満帆に見えたシュミットの生涯だが、私生活は恵まれず、最初の妻カロリーネは精神に変調を来たし、精神病院に収監された。また彼女との間に出来た娘エンマは1932年、子供を出産直後に死去。これはシュミットに衝撃をもたらし、元々優れなかった健康状態をさらに悪化させることとなった。この娘の死をきっかけに1932年から33年にかけて書かれたのが交響曲第4番であり、シュミットはこの曲を「我が娘のための」、あるいは「私にとってもっとも真実かつ切実な作品」と呼んでいる。じっさい彼自身、当交響曲を完成できずに死ぬのではないか、という思いに苛まれていたらしい。
 やがてナチスドイツがオーストリアを併合する中、シュミットはオーストリアを代表する作曲家ということで、ナチスを讃えるカンタータを作曲するよう要請された。結局彼ははこの作品を未完成のまま放置して死去するものの、こうした経緯から第二次世界大戦後、ナチスの協力者だったとして一時厳しい非難を受けることとなる。また最初の妻カロリーネは、シュミットが亡くなってから3年後、精神病患者一掃を掲げるナチスの政策により殺害された。栄光の生涯に忍び寄る暗い晩年・・・、それがシュミットの一生だった。



 シュミットの作品にはロマン派の様々な作曲家からの影響が指摘されているが、交響曲第4番も例外ではない。4つの部分からなる単一楽章という構成はリストを彷彿させるし、ソナタ形式と変奏曲の融合という点ではブラームスを思い起こさせる。また自身オルガン演奏にも長けていたという経歴ゆえか、オルゲル・プンクトの重視や大規模なフーガの展開などは、やはりオルガニスト出身だったブルックナーに似て・・・、といった具合。さらにシュミット自身はマーラー嫌いを公言していたようであるが、無調の一歩手前まで到達した調性感覚や楽曲全体に立ち込める厭世観などはまさしくそのマーラーの衣鉢を継ぐものといえるし、官能的なパッセージや音色はR.シュトラウスの世界に通じるものがある。
第1部 アレグロ・モルト・モデラート 3/4拍子 ハ長調
 ソナタ形式で言えば提示部と展開部に当たる部分である。冒頭トランペットの独奏が悲歌風の旋律(譜例1)を奏でるが、これは作品全体の核となる主題だけでなく、第1主題とでも呼ぶべきもの。調性と無調とのあわいを行き来する響きが特徴で、長調か短調かも判然としない。やがて譜例1から派生したハンガリー風の憂いに満ちた旋律(譜例2)を第1ヴァイオリンが情熱的に歌い始めるが、これを第2主題と考えることもできよう。
 ホルンによって冒頭の主題が奏でられると、ここからが展開部。譜例1と譜例2の旋律が様々に変容されて出現し、最後は譜例2の前半部分が静かに演奏されると・・・

【譜例1】
【譜例2】
第2部 アダージョ 8/8拍子 変ロ長調
 ・・・独奏チェロによって美しい旋律(譜例3)が導かれ、他の楽器がそれを彩る緩徐楽章風の部分に入る。やがてこの旋律の核を成す「ターン・タタタタタン」というリズムによって、葬送行進曲が開始。当作品に込められた鎮魂歌としての側面が、顕著になっている箇所である。再び譜例3の旋律が戻ってくるものの調性はどことなく虚ろになり、最後はティンパニが葬送行進曲のリズムを刻むと・・・
【譜例3】
第3部 モルト・ヴィヴァーチェ 6/8拍子 変ロ短調
 ・・・上記のリズムと譜例3の旋律を一捻りして、スケルツォ風の旋律(譜例4)がヴィオラによって導かれ、フーガとなって異常なまでの(カラ元気な?)盛り上がりを見せる。だがこの盛り上がりも最後には大崩壊を迎え・・・
【譜例4】
第4部 アレグロ・モルト・モデラート 3/4拍子 ハ長調
 ・・・全てが消え去った世界で、ホルンが第1楽章冒頭の旋律を黙示録風に呼び交わし、続く第2主題をヴァイオリンが切々と歌い上げる。いわば全曲の再現部的な部分であり、やがて独奏トランペットが残り、冒頭主題を回想して作品は沈黙の中へと沈んでゆく・・・

 第1部〜第4部は続けて演奏される。

初演:1934年1月10日 ウィーン楽友協会大ホール(なおこの演奏会では、シューマンのピアノ協奏曲と並んで、R.シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』も取り上げられている)
楽器編成:フルート2(2番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、イングリッシュホルン、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、バスチューバ、ティンパニ、シンバル、小太鼓、大太鼓、タムタム、ハープ2、弦五部
演奏時間:約45〜50分

シュミット年譜
1874年 12月22日プレスブルク(現在のブラティスラヴァ)に生まれる
1888年 家族とともにウィーンへ移住、楽友協会音楽院へ入学しチェロ・作曲(師はブルックナー、フックス)を学ぶ
1896年 交響曲第1番完成、楽友協会音楽院を最優秀の成績で卒業、ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団にチェリストとして入団
1897年 ブラームスが死去、マーラーがウィーン宮廷歌劇場の芸術監督に就任(1907年まで)
1899年 カロリーネと結婚
1911年 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団チェリストを兼務、音楽アカデミーでチェロや作曲を教えるようになる
1914年 ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団を退職、作曲・指揮・独奏・教育等に幅広く活躍
1919年 カロリーネが精神病院に収監される
1925年 教え子のマルガレーテと再婚、ウィーン音楽アカデミーの校長に就任(1927年まで)
1927年 ウィーン芸術大学の校長に就任(1931年まで)
1928年 交響曲第3番完成、シューベルト没後100年記念作曲コンクールで第二位に。
1932年 娘エンマ死去、交響曲第4番に着手
1933年 交響曲第4番完成
1934年 交響曲第4番初演
1938年 ナチスドイツがオーストリアを併合
1939年 2月11日に死去 享年65

(C) 小宮 正安(ヨーロッパ文化史研究家 横浜国立大学准教授)(無断転載を禁ずる)


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