2010年04月09日第144回定期演奏会〜曲目解説ショスタコーヴィチ
交響曲 第9番 変ホ長調 作品70
ショスタコーヴィチ(Dmtri Dmitrivich Shostakovich 1906 − 1975)ほど、生涯にわたって国家と政治に翻弄された作家はいないだろう。最初の事件は1936年の「プラウダ批判」である。少し前に初演され大好評を博していたオペラ《ムチェンスク群のマクベス夫人》とバレエ《明るい小川》が相次いで、共産党機関紙『プラウダ』紙上で批判された。スターリンの意向を汲んで、「形式主義」的で反社会主義的な作品のレッテルが貼られたのだ。折りしも「人民の敵」大粛清が進行中で、音楽家のジリャーエフ、ガーチェフ、ポポフらが強制収容所に送られ、作曲者が頼りにしていたトハチェフスキイ元帥も、友人の演出家メイエルホリドも処刑されてしまう。ショスタコーヴィチも「明日はわが身か」と死の恐怖に直面した。同じ1936年に完成し、11月にリハーサルが行われた交響曲第4番は、新たな批判を予感して、総譜を取り下げてしまった。プラウダ批判以降、作曲家たちは社会主義や共産党を賛美するカンタータや交響詩を作るようになっていた。しかしショスタコーヴィチは純粋器楽の交響曲にこだわった。熟慮の末、交響曲第5番を1937年7月に完成させ、若き指揮者ムラヴィンスキーと入念なリハーサルを重ね、11月21日の革命20周年記念演奏会で初演され大成功を収めた。 古典的明解さをもち革命の勝利を賛美する交響曲として大いにもてはやされた。作曲者の名誉はようやく回復されたのである。
プラウダ批判がなければ、彼はオペラ作曲家となっていたことだろう。オペラの作曲が大好きで、《鼻》も《マクベス夫人》も大成功であった。しかしオペラの創作は思想と結びついて批判されやすいので封印され、純粋器楽の交響曲を創作の柱にせざるを得なかった。その後の交響曲も一筋縄ではゆかなかった。1939年の交響曲第6番は楽しく叙情的な三楽章の曲で、第5番のような革命的交響曲を期待していた人々には失望と困惑をもって受け容れられた。1941年独ソ戦が始まり、ナチスのレニングラード攻囲の中で作曲された交響曲第7番は、80万人もの犠牲者を出した苦しい闘いの中で人々を励まし、「レニングラード市」に捧げられた。1943年の交響曲第8番は五楽章の壮大で悲劇的な作品である。
交響曲第9番は、ベートーヴェンからブルックナー、マーラーにいたるような記念碑的な交響曲が期待された。ましてや1945年5月のドイツ降伏の戦勝気分高揚の中で、戦争勝利とスターリン賛美を高らかに歌う合唱付の大交響曲が待望され、作曲者も当初はそのような曲を構想したようだ。しかしそれは断念され、全く違う形となった。英雄的で巨大な第7番と第8番に続く第9番はディヴェルティメントのような小型の交響曲となった。スターリンが激怒したのもよくわかる。それは1948年のジダーノフ批判につながり、ショスタコーヴィチはオラトリオ《森の歌》で名誉回復するが、続く交響曲第10番はスターリン死後の1953年まで作曲されないままとなる。
交響曲第9番は、1945年8月5日に第1楽章、12日に第2楽章、20日に第3楽章、21日に第4楽章、30日に第5楽章が完成された。一ヶ月余りの短期間に作られたコンパクトな交響曲となっている。冒頭のソナタ楽章にはショスタコーヴィチには珍しく、古典派交響曲のような提示部の反復記号がついている。小さいながらもハイドンの交響曲のように機知に富み、風刺やユーモアにショスタコーヴィチの反骨精神を盛り込んだ見事な傑作といえるだろう。
第1楽章:ソナタ形式。第1主題は明るく軽快に飛び跳ねる。第2主題は小太鼓の行進曲風のリズムでピッコロで提示される。無理やり踊らされているような皮肉な調子が耳に残る。短い展開部ではやたら大袈裟な身振りが目立つ。
第2楽章:二部形式。古典交響曲によくある展開部のないソナタ形式のような構成である。クラリネットがロ短調のもの哀しいワルツのような主題を歌い始める。第2主題は弦楽によるへ短調のとぎれとぎれの旋律で、それは次第に切迫高揚してゆく。
第3楽章:スケルツォ。主部はト長調で急速に回転しながら飛び回る。中間部のトリオは嬰へ短調でトランペットの旋律で始まる。これはスペインのファンダンゴのような音楽で、闘牛士やフラメンコを連想させる。
第4楽章:二部形式。前後の楽章とアタッカで結ばれている。トロンボーンの重苦しいファンファーレで始まる。葬送行進曲のようだが、この音楽はこれ以上発展せず、ファゴットのモノローグに続く。この最初の部分はベートーヴェンの第9終楽章のレチタティーヴォのパロディのようでもある。
第5楽章:ロンド形式。ファゴットがユーモラスなロンド主題を吹き始める。この主題はユダヤ民謡のパロディという説もあり、人を食ったような毒気をもつ。2つの挿入句の後、ロンド主題が展開されて、強奏での再現はグロテスクでさえある。
プロコフィエフ
ヴァイオリン協奏曲 第1番 ニ長調 作品19
プロコフィエフ(Sergey Sergeyevich Prokofiev 1891-1953) は、裕福な家庭に育ち、英才教育を受け、少年時代に神童として有名になっていた。1904年にペテルブルク音楽院に入学したときには、すでに鼻っ柱の強い少年で、彼にとってはリャードフの和声法もリムスキー=コルサコフの管弦楽法も退屈極まりないものだった。音楽院時代にはミャスコフスキーやアサフィエフとの交友を大事にし、2曲のピアノ協奏曲をはじめとする創作や演奏活動を盛んに行った。1914年に音楽院を首席で卒業すると、ヨーロッパ旅行中にロンドンでディアギレフと会い、バレエ音楽を委嘱され、《アラとロリー》(スキタイ組曲)、《道化師》が生れる。バレエは第1次世界大戦のために上演されなかったが、彼の創作力は止まる所を知らなかった。オペラ《賭博師》、交響曲第1番、ピアノ曲《束の間の幻影》、ピアノソナタ第3番と第4番といった初期の傑作群と並んで、1915年から1917年にかけて作曲されたのがこのヴァイオリン協奏曲第1番である。この年革命が起き、プロコフィエフは政治的混乱を逃れて、1918年に日本を経由してアメリカに亡命する。ヴァイオリン協奏曲の初演は1923年10月18日パリで、グリュー独奏クーセヴィツキー指揮で行われた。決定的なのは翌年プラハでのシゲティとライナーによる再演で、シゲティはこの後世界各地で演奏してこの曲を知らしめた。なおプロコフィエフは1935年にソ連に戻り、その後の創作活動はショスタコーヴィチと同様に、政治に翻弄された。
ヴァイオリン協奏曲第1番は、極めて独創的な名作である。ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーの協奏曲と同じニ長調であるが、緩・急・緩の楽章構成は独特である。何よりも20代半ばのプロコフィエフの瑞々しい感性から生れた詩情豊かな抒情性が美しく、鋼鉄のように鋭く切れ込む中間楽章と見事に対比づけられる。20世紀屈指の傑作協奏曲といえよう。
第1楽章:ソナタ形式。第1主題はひそやかに歌い始め、次第に天上の高みへと昇ってゆく。第2主題は装飾音やトリルがついて細かく動く。結尾楽句は攻撃的となる。展開部は独奏のピッチカートで始まり、難しい重音や技巧的パッセージが続く。再現部はフルートの第1主題に弱音器付きの独奏が刺繍のように纏わりつき、幻想的に楽章を閉じる。
第2楽章:スケルツォ。コマのように急速に回転するスケルツォ主部に対し、第1のトリオは独奏の重音による明確なリズムで始まる。第2トリオは、スル・ポンティチェロ(駒の上で弾く)による奇怪な音色が特徴的である。
第3楽章:自由な変奏形式。ファゴットによる短い導入に続いて、独奏ヴァイオリンがト短調のとつとつとした第1主題を奏する。第2主題はテンポを速めてヴィオラで優雅に歌われる。テンポを落として独奏ヴァイオリンが第1主題を変奏する。後半の高音域の重音はとても美しい。続く変奏では独奏が音階上下し、バスは導入楽想を繰り返す。コーダでニ長調が戻り、木管が第1主題を吹奏する中で、独奏ヴァイオリンが第1楽章の冒頭主題を朗々と歌う。極めて印象的な箇所である。最後は第1楽章と同じ終わり方で幻想的に曲を結ぶ。
ラフマニノフ
交響的舞曲 作品45
ラフマニノフ(Sergey Vasilyevich Rachmaninoff 1873-1943)の傑作はロシア時代に集中している。1917年に革命が勃発し、ラフマニノフ一家は混乱を避けるためにスウェーデンに演奏旅行に出かけた。すぐに帰国する予定だったが、貴族のラフマニノフは二度と祖国に戻れず、家や財産の全ては没収されてしまった。無一文となったラフマニノフはアメリカにわたり、コンサート・ピアニストとして生計を得ざるをえなくなった。シーズン中は演奏旅行に明け暮れ、夏のオフには新しい曲を練習しなければならなかった。不断の努力でたちまち「世界一のピアニスト」と言われるようになる。当時ニューヨークにいたプロコフィエフも「彼がこんなに成功するなんて想像もしていませんでした」と感嘆した。作曲する時間はほとんどなく、亡命後25年間でわずか数曲しか残せなかった。ピアノ協奏曲第4番(1926)、コレッリの主題による変奏曲(1931)、交響曲第3番(1936)などでいずれも優れた作品だが、人気曲とはいい難い。中ではパガニーニの主題による狂詩曲(1934)が比較的多く演奏されるくらいだろう。
1940年夏、ニューヨーク郊外のハンチンクトンでラフマニノフは次のシーズンの準備と作曲に没頭した。交響的舞曲は、8月10日にピアノ連弾譜が出来上がり、8月29日に総譜が完成された。妻のナターリアの回想によると「朝8時半から作曲に取り掛かり、10時から2時間コンサートの準備をし、12時から1時までまた交響的舞曲の作曲。昼食休憩の後、3時から夕食の時間以外は10時まで作曲していました。、、、細かい文字で総譜を書く仕事のために、夜になると彼の目は見えなくなるのです。演奏旅行中に、私たちが降りる大きな駅では、交響的舞曲の校正刷りが待っていました。彼はコンサートが始まる前と、後に校正をしたのです。」9月にはフォーキン一家とシャリアピン兄弟の前で、ラフマニノフとホロヴィッツが連弾でこの曲を披露した。そして1941年1月にオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団によって初演された。
交響的舞曲はラフマニノフ最後の作品である。当初は「幻想的舞曲」のタイトルで、3つの楽章には「朝」「正午」「晩」(友人のサーチナの回想では「昼」「黄昏」「真夜中」)の題名が付けられていたが、最終的には取り除かれた。実質的に交響曲第4番といっていいような充実した内容で、聴くほどに魅力が増す傑作である。隙なく堅固な構築性、色彩的なオーケストレーション、ラフマニノフ特有の抒情性、特に二度と戻れなかった祖国ロシアへの想いがいっぱいに詰まった白鳥の歌といえるだろう。
第1楽章:ノン・アレグロ、ハ短調、4/4拍子、三部形式。前進駆動する行進曲のリズムで快進撃する。中間部はレント、嬰ハ短調となり、アルト・サックスが叙情的な旋律をノスタルジックに歌い始める。これに木管が絡み、弦楽に移るところはとても美しい。再現部はごく短く、ハ長調のコーダでは、中間部を回想するような優しい旋律が現れる。
第2楽章:アンダンテ・コン・モート、ト短調、6/8拍子、三部形式。不安なファンファーレで始まり、ワルツの旋律が独奏ヴァイオリンから各楽器に優雅に受け継がれる。中間部はハ長調で短い旋律断片が重ねられ、悩ましい気分を醸し出す。ファンファーレでワルツが戻り、最後はテンポを速める。
第3楽章:レント・アッサイ、ニ長調、拍子、6/8三部形式。短い序奏に続くアレグロ・ヴィヴァーチェのスケルツォの旋律は、グレゴリオ聖歌の「怒りの日(ディエス・イレ)」の旋律を下敷きにしている。さながら死の舞踏のようでもある。中間部はレント・アッサイ、ホ長調、9/8拍子で、物憂げな旋律が歌われる。再現部でテンポが戻り、「怒りの日」がトランペットで明確に強奏される。コーダでは《晩祷》の第9曲「主に祝福あれ」が引用され、ニ短調で華やかに締めくくる。
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