2010年05月28日第145回定期演奏会〜曲目解説◇ブラームス
セレナード 第1番 ニ長調 作品11
セレナードは18世紀までは、記念日や誕生日等の特別な機会に、特定の人を祝うための音楽ジャンルだった。しかも屋外での演奏が一般的で、当事者の家の前や中庭で奏でられる、音によるプレゼントといった趣を呈していた。
ところがこの世紀の末に勃発したフランス革命を機に、事態は急速に変化を遂げていった。革命思想の伝播を声高に叫ぶナポレオンがヨーロッパ全土に軍隊を進めたり、それに対抗する反動勢力が検閲監視体制を強化したりする中、戸外でセレナードなどと悠長なことを言っていられなくなってしまったのである。
ただし、セレナード自体が消滅したわけではない。それは大きめのサロンや、コンサートホールといった屋内に上演の場を見出していった。しかも、ベートーヴェン以降巨大化しつつあった交響曲とは対照的に、伝統的なセレナードの性格を踏まえ、ダンス音楽を含む自由な構成による親しみやすい組曲風の管弦楽曲として人気を博した。さらにこれまた18世紀以前のセレナードを彷彿させ、小編成のアンサンブルやオーケストラによる演奏が一般的だった。
さてブラームスのセレナード第1番だが、1857年に生まれている。折りしも、交響曲として構想されたことがあるピアノ協奏曲第1番が完成した頃のこと。当時の作曲家にとって交響曲を書くとは、ベートーヴェンの高みを超える難行であり、それが19世紀半ばの交響曲不毛時代を招く一因になったと言われているほどである。だからこそブラームスは、交響曲的な要素を多分に含んだピアノ協奏曲を手がける傍ら、それとは対象的なセレナードで自身のバランスをとろうとしたのではないか。
たしかに、苦悩や苦闘の跡が窺えるピアノ協奏曲第1番に比べると、冒頭と最後を飾る第1・第6楽章を一聴しただけで、祝いの席で演奏されていたかつてのセレナードのごとく、祝祭的な雰囲気が一杯だ。第4楽章にメヌエットという古めかしい形式があえて用いられているのも、ブラームスが敬愛していたハイドンやモーツァルトのセレナードに対するオマージュと考えられよう。一方、スピード感と活気を前面に押し出したのが第2楽章と第5楽章のスケルツォ。しかも軽妙さ一辺倒にはあらず、第3楽章のアダージョに代表されるように、ブラームスらしい沈潜が思いがけず現れるのも当作品の特徴である。
当初は現行の1・3・6楽章にあたる3つの楽章から成っており、編成もヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、クラリネット2、ファゴット、ホルンだった。翌1858年、他の楽章が加わって全6楽章となり、当時ブラームスを雇っていたデトモルトの侯爵の屋敷等で私的な初演が重ねられた。
やがて1860年、ブラームスはハンブルクに移るが、そこで当セレナードは管弦楽用に改訂される。そしてこの作品こそ、1876年に交響曲第1番が完成されるまで、ドイツ語圏の作曲家が手がけた管弦楽曲の傑作として各地で高い評価を受けた。さらにセレナードそのものが、交響曲と並ぶコンサートホールの人気演目と化し、後にブラームスの崇拝者であったドヴォルザークやフックスもこのジャンルを手がけてゆく。なお元々の室内楽版だが、管弦楽版完成後ブラームス本人の手で破棄されてしまった。
第1楽章 : アレグロ・モルト ニ長調 2/2拍子
第2楽章 : スケルツォ アレグロ・ノン・トロッポ ニ短調 3/4拍子
第3楽章 : アダージョ・ノン・トロッポ 変ロ長調 2/4拍子
第4楽章 : メヌエット ト長調 3/4拍子
第5楽章 : スケルツォ アレグロ ニ長調 3/4拍子
第6楽章 : ロンド アレグロ ニ長調 2/4拍子
楽器編成 : フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、ティンパニ、弦五部
初演 : 1860年 ハノーファ 指揮 : ヨーゼフ・ヨアヒム
◇ブラームス
ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 作品15
とかく、若きブラームスの苦悩や苦闘と結びつけて語られることの多い作品である。師と仰ぐロベルト・シューマンの投身自殺未遂と衝撃的な死。彼の妻であったクララに対する秘めたる思慕。さらに私生活上の事件に加え、作品そのものの誕生が困難を極めた。
元々は1854年に2台のピアノのためのソナタとして一旦書き上げられるも、すぐさま交響曲用に書き直しが開始され、それが行き詰まるに及んで、翌55年に協奏曲に改めるべく新たな挑戦が始まる。その後も改訂が重ねられ、第1楽章と第3楽章は1856年の後半に、第2楽章は当初の形からまったく新たに書き換えられ、1857年の初頭に完成されるに至った。
しかも1859年におこなわれた初演の評価は芳しくなく、とりわけ2回目の演奏となるライプツィヒでの演奏会では激しい野次に見舞われた。ブラームスが受けた衝撃は大きく、その後一時、故郷のハンブルクに引きこもってしまったほどである。
このように逸話に事欠かない作品だが、例えば初演当時の客席の反応を知るにつけ、協奏曲はどのような存在として考えられていた のだろうか。
協奏曲の、特に第1楽章にソナタ形式が取り入れられるようになったのは、18世紀後半の古典派の時代からである。ただしその構成を見ると、「オーケストラによる提示部‐独奏者による提示‐展開部‐再現部」というのが一般的で、オーケストラと独奏者が交互に演奏しあういわば「競奏曲」の趣を呈していた。
これが19世紀に入りロマン派の時代を迎えると、独奏の比重が大きくなる。例えばシューマンのピアノ協奏曲のごとく冒頭からピアノが華々しく登場したり、あるいはショパンのそれのようにオーケストラが単なる伴奏に甘んじたりといった具合。ヴィルトゥオーゾ的な技を縦横無尽に駆使することが、協奏曲の本流と化した。しかも先ほど触れたセレナード同様、協奏曲も思索的かつ晦渋な交響曲に相対する存在であり、名人芸の享受に主眼が置かれていた。
そうした流れに真っ向から逆らうかのように書かれているのが、ブラームスのピアノ協奏曲第1番に他ならない。たとえば第1楽章では、ロマン派の他の協奏曲に比べ、先祖返りかと思える程ソナタ形式への拘りが強い。またオーケストラとピアノの絡みが少なく、しかもオーケストラの方が主役となる部分が多いため、「ピアノ伴奏付きの管弦楽曲」といった批評が当初から付きまとうこととなった。曲想も一時は交響曲として構想されただけのことはあって、協奏曲ならではの華やかさを期待していると裏切られよう。
このように異端児のごとく語られる作品ではあるが、実のところ、ロマン派のピアノ協奏曲の特質を拡大したと考えることもできるのではないか。例えば短調で始まり長調で終わるという構成は、ベートーヴェン作品の「暗から明へ」のプロセスに影響を受けたロマン派の作品(もちろんそこには協奏曲も含まれる)の多くに見られるもの。しかもブラームスの場合、ベートーヴェンの交響曲第9番と同じく、ニ短調からニ長調への解決が図られている。
ピアノの活躍する箇所があまりに少ないという意見に対しても、オーケストラと独奏が密接に絡み合う当時の協奏曲のスタイルから影響を受けている、と反論することは可能だ。とはいえこのスタイルが目指していたのは、オーケストラの輝かしい響きの上にさらに独奏の輝きを増し加えようというもので、ブラームスの方向性とは明らかに異なっていたのだが…。
第1楽章 : マエストーソ ニ短調 4/6拍子
長大なソナタ形式。第1主題(譜例1)が一瞬変ロ長調かと思いきや、実は苦悩を湛えたニ短調であるなど、調性のゆらぎを得意としたブラームスの手腕が早くも現れている。ピアノがようやく登場するのは第1主題がある程度演奏されてから。そのまま第2主題(譜例2)がピアノ独奏で提示されるのも異例のことだった。展開部・再現部ともに激情と不安が随所に顔を覗かせる。なお、独奏者の独壇場となるべきカデンツァが一切ないのも特徴である。
【譜例1】譜例作成:森洋久
【譜例2】譜例作成:森洋久
第2楽章 : アダージョ ニ長調 4/6拍子
前楽章とは長さも雰囲気も対照的な、三部形式の短い楽章。主題とも動機ともつかない下降音型(譜例3)とその発展から成っている。最後にピアノの短いカデンツァが置かれているが、ここにはシューマンあるいはクララへに対する祈りが込められている、と伝えられている。
【譜例3】譜例作成:森洋久
第3楽章 : ロンド アレグロ・ノン・トロッポ ニ短調 2/2拍子
ロンド・ソナタ形式。冒頭のロンド主題(譜例4)では、独奏とオーケストラが交互に掛け合う伝統的な協奏曲のスタイルがとられている。ただし中間部ではオーケストラのみがフゲッタを展開するなど、管弦楽曲的な色彩が強い当作品ならではの特徴も。最後は2度にわたってカデンツァが登場し、勝利を象徴するニ長調で終わる。
【譜例4】譜例作成:森洋久
楽器編成:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、ティンパニ、弦五部
初演 : 1859年1月22日 ハノーファ
指揮 : ヨーゼフ・ヨアヒム ピアノ : 作曲者
ブラームス年譜
1833年 5月7日ハンブルクで誕生。
1843年 公開の席にて初のピアノ演奏。マルクセンに師事。
1853年 ヴァイオリニストのレメーニと演奏旅行へ出発。
その途上、ヨアヒム、リスト、ロベルトならびにクララ・シューマン夫妻と知り合う。
シューマンはブラームスを賞賛。
1854年 シューマンの投身自殺未遂と精神病院への収容。
クララに対する好意が、恋愛感情へと高まる。
交響曲創作への意欲が高まる。
1855年 クララの住むデュッセルドルフへ移住。ハンスリックと知り合う。
1856年 シューマン死去。デュッセルドルフを去る。
1857年 デトモルトの宮廷に定職を得る。『ピアノ協奏曲第1番』完成。
1858年 ゲッティンゲンで、ソプラノ歌手ジーボルトと知り合い婚約までおこなうものの、
最終的にはそれを解消。『セレナード第1番』の最終型が完成。
1859年 『ピアノ協奏曲第1番』初演。ライプツィヒにおける再演が失敗に終わる。
『セレナード第2番』完成。
1860年 『セレナード第1番』『セレナード第2番』それぞれ初演。
1861年 『ピアノ四重奏曲第1番』完成と初演。
1862年 ウィーンへ初めての旅行。以降この街をしばしば訪れるようになる。
『交響曲第1番』の原型が出現。
1865年 母クリスティーナが死去。『ドイツ・レクイエム』の完成に努める。
1868年 『ドイツ・レクイエム』の最終型完成。『ハンガリー舞曲集』出版。
1869年 『ドイツ・レクイエム』の最終型初演。
1871年 普仏戦争におけるドイツの勝利に刺激された『勝利の歌』を作曲。
1872年 ウィーン楽友協会の芸術監督に就任し、最終的にウィーンに定住。父ヤーコプ死去。
1873年 『ハイドンの主題による変奏曲』完成と初演。
『ハンガリー舞曲』より1・3・10番をオーケストラ用に編曲。
1875年 ウィーン楽友協会の芸術監督を辞任。
1876年 『交響曲第1番』完成と初演。
1877年 『交響曲第2番ニ長調』完成と初演。
1878年 『ヴァイオリン協奏曲』完成。
1879年 『ヴァイオリン協奏曲』初演。
1880年 『悲劇的序曲』完成。『大学祝典序曲』完成と初演。
1881年 『ピアノ協奏曲第2番変ロ長調』完成と初演。『悲劇的序曲』初演。
1883年 『交響曲第3番ヘ長調作品90』完成と初演。
1885年 『交響曲第4番ホ短調作品98』完成と初演。
1886年 ウィーンの音楽家協会の名誉会長に就任。
1887年 当初『交響曲第5番』として構想されたことのある
『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲』完成。
1888年 『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲』初演。
1889年 ハンブルクの名誉市民に推挙される。
1890年 『弦楽五重奏曲 第2番』完成と初演。
1895年 ブラームス音楽祭が、マイニンゲン等の都市で開催。
1896年 クララ死去。 『4つの厳粛な歌』『11のコラール前奏曲』完成。
1897年 4月3日ウィーンで死去。
(C) 小宮 正安 (ヨーロッパ文化史研究家 横浜国立大学准教授)(無断転載を禁ずる)