2010年06月18日第146回定期演奏会〜曲目解説

 児玉宏を音楽監督に迎えた大阪シンフォニカー改め大阪交響楽団の快進撃が続いている。平成21年度文化庁芸術祭大賞受賞を始め、その演奏内容の充実と共に、児玉の高い見識に裏付けられたユニークな主張を伴うプログラミングは注目を集めている。今、日本で最も注目すべき指揮者とオーケストラのコンビが児玉宏と大阪交響楽団であるのは、何人たりとも否定できないだろう。
 「楽団創立30周年記念シリーズ」の中の1回である第146回定期演奏会でも、児玉らしい主張を持ったプログラミングがなされている。
 今年生誕100周年を迎えたサミュエル・バーバーの傑作2曲と、ロシアの「忘れられた作曲家セルゲイ・タニェエフ」の最も重要な作品のひとつである交響曲第4番である。
 「シェフからのメッセージ」で児玉が述べているように「名曲」の定義について改めて考えてみたい。通俗的な意味での「名曲」とは、作品として成功を収め、それが演奏され続け、多くの聴衆に知られ、人口に膾炙したものである。しかし、ここで考えなければならないのは、作曲という行為の時代の中での危うさである。作曲は、楽譜という「作品」が残るという意味で、時間の中で消え去る「演奏」とは異なるものである。印刷という技術がまだ発達していなかった時代は、作曲もまた消費され消えて行くものであったが、バロック期以降の作品は印刷され残されて行く。オリジナリティが求められるゆえに、創作は常に「新しさ」を追求する宿命を持たされる。そのために「新しさ」が感じられない作品は、初演において成功を収めにくいのである(その逆に「新し過ぎた場合」もまた同様だが)。
 今宵児玉が選んだ2人の作曲家は、「新しさ」を追い求めなかった作曲家である。しかし、「新しさ」は年を経るうちに「新しさ」を失う。そこに残るのは作品として「美しいか否か」である。この3作の「美しさ」は、時を超えて生き残る価値を持っている。児玉の確信に満ちた主張と、それを受け止めて自らの言葉へと転換した大阪交響楽団は、作品の「美しさ」によって、今宵の聴衆を魅了してくれるだろう。

 サミュエル・バーバー(1910.3.9〜1981 .1.23)
 管弦楽のためのエッセイ 第1番 作品12
 ヴァイオリン協奏曲 作品14

 サミュエル・バーバーは20世紀アメリカの作曲界においては「ネオ・ロマンティシズム」に分類され、伝統主義・保守主義の代名詞のようにも扱われるが、確かにバーバーは「革新者」ではなかった。
 1971年にバーバーが自分の作曲家としての信条を記した文章を見てみよう。
 「言葉のための音楽を作曲する場合には、私は自分をそれらの言葉の中に浸してしまいます。そうして音楽がその中から湧き出るままに任せるのです。抽象的なピアノ・ソナタや協奏曲を書く場合には、私は自分で感じたことを書きます。私は自意識の強い作曲家ではありません。私には全く様式がないと言われることがありますが、それは問題ではありません。私はただ、彼らが言うところの私のやり方を続けて行くだけです。こうするにも、それなりに勇気がいると私は信じています。」
 バーバーは幼い頃から楽才を示し、14歳でカーティス音楽院の最優秀クラスに入学する。この名門校の創立者であるメアリー・ルイーズ・カーティス・ボックは、後にバーバーの熱烈な後援者となったことでも、その優秀さは理解できよう。ここでピアノ、作曲、指揮(フリッツ・ライナーに師事!)、更に声楽を学んだバーバーは、8年間の在学中に数多くの賞を受賞する。彼の出世作とも呼ぶべき「悪口学校The School for Scandal」序曲は、1933年の2度目のバーンズ賞(コロンビア大学による)受賞作品である。この後35年と36年には、ピュリッツアー奨学金とローマ賞を得てヨーロッパへの2度目の旅行の機会を獲得する。この35年にイタリアでトスカニーニと面会したバーバーは、幾つかの作品をこの世紀の大指揮者に見せた。この出会いは、3年後の1938年に、トスカニーニ指揮NBC交響楽団のコンサートで結実する。バーバーの《管弦楽のための「エッセイ」第1番(1937年作曲)》と、バーバーの代名詞ともなっている《アダージォ(1936年に作曲されその年の12月にローマで初演された弦楽四重奏曲の第2楽章を弦楽合奏用に編曲したもの)》が、1938年11月5日ニューヨークで初演されたのだ。2曲とも極めてシリアスな音楽であり、バーバーの叙情性と劇性の個性が見事に発揮されている傑作と言えるだろう。トスカニーニは、この《アダージォ》をレコード録音し、バーバーの名はこの名録音によって広く世界へと知られるようになったのだ。
 1939年から40年にかけて作曲されたヴァイオリン協奏曲は、もう少し複雑な誕生のエピソードが残されている。フィラデルフィアにあるカーティス音楽院を卒業して5年が過ぎたバーバーに、フィラデルフィアの実業家サミュエル・フェルズから、彼の養子でカーティス音楽院卒業のヴァイオリン奏者イソ・ブリセッリのための協奏曲の作曲依頼がある。委嘱を受けたバーバーは、前金を手にスイスに渡り作曲を開始し、最初の2つの楽章をブリセッリに見せる。ブリセッリは作品にヴィルトゥオジティの不足を感じ、不満を口にする。更には終楽章に至っては演奏不可能と拒絶したのであった。フェルズの前払い金の返却が求められるが、バーバーは既にスイスへの旅費にそれを使ってしまっていた。ここで、バーバーに助け舟が入る。カーティス音楽院のスタッフ・ピアニスト、ラルフ・バーコヴィッツが、初見試奏の名人であったヴァイオリン科の学生ハーバート・バウメルに依頼し、終楽章がブリセッリの主張通り演奏不可能かどうかを試したのだ。ヨーゼフ・ホフマンのスタジオに集まったバーバー、ジャン・カルロ・メノッティ、メアリー・ルイーズ・カーティス・ボックとその友人の前で、バウメルは見事に演奏し、バーバーは無事に委嘱料を受け取り、ブリセッリは演奏権を放棄する取り決めがなされるに至って、この騒動は決着を見たのである。
 ヴァイオリン協奏曲の初演は、1939〜40年のシーズンに、このバウメルのソロ、フリッツ・ライナーの指揮するカーティス音楽院交響楽団によって行なわれ、1941年2月7日には、アルバート・スポールディングのソロ、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団による公式初演、更に2月11日にはカーネギー・ホールでも演奏され、アメリカのヴァイオリン協奏曲として最も演奏される機会の多い曲へと育って行くこととなる。今宵のソリスト、竹澤恭子もまた、この曲を重要なレパートリーとするヴァイオリン奏者の1人である。

 セルゲイ・イヴァノヴィッチ・タニェエフ
 (1856.11.25〜1915 .6.19)
   交響曲 第4番 ハ短調 作品12

 タニェエフには、6歳上の作曲家アレクサンドル・セルゲエヴィッチ・タニェエフという叔父がいた。このアレクサンドルは、リムスキー=コルサコフに学び、バラキレフら国民楽派と深い親交を結んだ人物で、真にロシア的な作品を生み出そうとし、官職に就きながらこつこつと作曲していた。
 セルゲイ・イヴァノヴィッチの方は、貴族の家系で、父は教養豊かな官僚であり、僅か5歳でピアノを学び始め、10歳の誕生日を迎える前にモスクワ音楽院に入学する。ピアノと理論を学ぶ中、チャイコフスキーの作曲のクラスに加わり、1871年にはニコライ・ルービンシュタインにピアノを師事する。改めて述べるまでもないが、ニコライ・ルービンシュタインはモスクワ音楽院の初代院長であり、チャイコフスキーの作品の紹介者としても知られる人物である(後にチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番では、それを酷評し決別する)。彼が院長を務めたモスクワ音楽院からは「モスクワ楽派」が生まれ、その西欧的な作風から「国民楽派」とは一線を画する作品が多く生み出されて行った。
 タニェエフは、このモスクワ音楽院で学んだ。1875年1月29日のロシア音楽協会での公式デビューでは、ブラームスのピアノ協奏曲第1番を演奏している。この年の12月3日には、ニコライ・ルービンシュタインに拒絶されたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を初演し、爾来、チャイコフスキーのピアノとオーケストラのための作品すべてのピアノ・パートを初演する。チャイコフスキーとタニェエフとの親交は、チャイコフスキーが亡くなるまで変わることなく続いた。
 1875年5月、タニェエフは、演奏と作曲で金賞を得たモスクワ音楽院初の学生として卒業し、演奏活動を開始する。78年にチャイコフスキーがモスクワ音楽院を辞任した後を受け和声法と管弦楽法のみを教えるという条件で母校の教鞭を執る。タニェエフはチャイコフスキーにのみ作品を見せていただけで、公に作品は発表していなかったのだ。既に学生時代から多くの作品を生み出していたにもかかわらず、である。
 タニェエフは、早くからバッハの音楽を愛し、オケゲム、ジョスカン・デュプレ、ラッススらルネサンスのポリフォニー音楽へとその研究を広げていた。対位法への飽くなき探求こそが、タニェエフの最大関心事であった。81年には死去したニコライ・ルービンシュタインのピアノのクラスを引き継ぎ、83年には辞職したグーベルトの作曲のクラスも引き受け、85年にはモスクワ音楽院院長となる。89年5月に院長を辞職し、対位法のクラスのみの教官となり、多くの時間を作曲に向けるようになった。その門下からは、スクリャービン、ラフマニノフ、グリエールらが輩出している。そのグリエール門下からプロコフィエフが輩出したのも忘れてはならないだろう。
 タニェエフの最も優れた器楽作品と評されている交響曲第4番ハ短調は、正にこの時期に生み出されている。1873〜74年の第1番、77〜78年の第2番(3楽章構成)、84年の第3番の後に、96〜97年に作曲された第4番は、1898年、グラズノフの指揮で初演され、1901年にはライプツィヒで出版されている。作品12となったこの第4番目の交響曲は、出版時には交響曲第1番とされていた。この慎重な姿勢もまた、タニェエフの人柄を偲ばせるものだろう。
 タニェエフは、高潔で寛容な人格者であり、彼に相対する立場の人々からも尊敬を集めていたと伝えられている。1905年のロシア革命時には、モスクワ音楽院の学生に対する弾圧に抗議して教官を辞したのもまた、タニェエフの人格の高さを示すエピソードであろう。
 交響曲第4番ハ短調作品12は、西欧風の全4楽章からなる堂々たる構成を持つ作品である。印象的なテーマ、格調高い様式美は、タニェエフの交響作品の代表作と呼べるものであろう。
第1楽章 アッレーグロ・モルト
第2楽章 アダージォ
第3楽章 スケルツォ : ヴィヴァーチェ
第4楽章 フィナーレ : アッレーグロ・エネルジーコ

(C) 國土潤一(評論家)(無断転載を禁ずる)


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