2010年07月23日第147回定期演奏会〜曲目解説■ フォーレ パヴァーヌ 作品50
ガブリエル・フォーレ(1845〜1924)は敬虔な教師の家庭に育ち、また幼少から際立った音楽的才能を示したため、9歳でルイ・ニデルメイエールが主宰する古典宗教音楽学校に学んだ。ニデルメイエールの没後には後任教師として赴任したサン=サーンスにピアノと作曲を師事、サン=サーンスは当時この学校のカリキュラムには含まれていなかったリスト、シューマン、ワーグナーなどの音楽を紹介し、同時にフォーレの人間形成にも多大なる影響を与えた。
1865年に古典宗教音楽学校を卒業したフォーレは、同じ年に「夢のあとに」を含む歌曲集「3つの歌Op.7」を出版、作曲家としての道を歩み始めるとともに、レンヌのサン・ソルヴェール教会のオルガニストに就任した。その後、幾つかの教会オルガニストを経て、1877年には31歳でマドレーヌ寺院の礼拝堂楽長という重責を担っている。その間、フランス国民音楽協会の創設にも関わり、作曲家としては創作初期を代表する「ヴァイオリン・ソナタ第1番Op.13」や「ピアノ四重奏曲第1番Op.15」、また夜想曲や舟歌の数曲を書いている。
一般に、フォーレの創作中期と呼ばれるのは、1880年代の後半からである。それは1885年の父トゥッサン=オノレ・フォーレや、1887年の母エレーヌ・フォーレの死去と時を同じくしている。それを契機に作曲されたのが、「レクイエムOp.48」であり、同じ頃誕生したのが「ピアノ四重奏曲第2番Op.45」や、この「パヴァーヌOp.50」である。
パヴァーヌとは、16世紀初頭に現れた宮廷舞曲。スペインが起源と言われ、クジャク(Pavo)が羽を広げて佇むような、威厳に満ちた風格でゆったりと踊られる。
フォーレの「パヴァーヌ」は、まず1886年にジュール・ダンベ演奏会管弦楽団のために管弦楽曲として作曲され、翌年にパトロネスだったグレッフュル伯爵夫人に勧められて合唱が付け加えられた。テキストはロベール・ド・モンテスキュー=フェザンサク伯爵の詩によっている。
後に作曲者自身の劇付随音楽「マスクとベルガマスク(1919年)」の終曲としても使用されており、これに啓発されたドビュッシーが「ベルガマスク組曲」の中で「バスピエ(出版前はパヴァーヌ)」を、ラヴェルが「亡き王女のためのパヴァーヌ」を書いたことはよく知られている。
フォーレの創作中期を標榜する清冽で優美な旋律は潤いを伴った格別な叙情を湛え、打楽器を置かず、金管楽器もホルンだけの小規模な編成は、室内楽的で緻密なアンサンブルを構築する。中間部では、力強さの中にも管弦楽と合唱が美しく調和し、再び静謐な響きに包まれて余韻嫋々と結ぶ。
嬰ヘ短調、4/4拍子、アレグレット・モルト・モデラート。ロンド的な三部形式で、合唱版は1888年4月28日、ソシエテ・ナショナルが主催したパリでのコンサートで初演された。
■ ブルッフ スコットランド幻想曲 作品46
マックス・ブルッフ(1838〜1920)はケルンに生まれ、当時音楽教師で著名な歌手でもあった母親から音楽の手解きを受けた。幼少から才能を開花させたブルッフはボンに学び、11歳で室内楽や管弦楽序曲を、14歳で交響曲を創作するなど周囲の大きな耳目を集めた。さらにブルッフはフェルディナント・ヒラーに作曲と理論を、カルル・ライネッケにピアノを師事、1858年にはオペラ「戯れ、奸計、復讐」が上演された。
「スコットランド幻想曲」として親しまれるこの作品が書かれたのは、ブルッフがイギリスのリヴァプール交響楽団の主席指揮者を務めていた頃、つまり1879年から翌年にかけての冬である。それまでブルッフは、現在も頻繁に演奏される「ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調」を1866年に、続く「同第2番」を1877年に作曲していたが、この作品に関しては敢えて「ヴァイオリン協奏曲」の名を冠することなく、「スコットランド民謡の旋律を自由に用いた、管弦楽とハープを伴ったヴァイオリンのための幻想曲」とした。それはこの曲を構成する序奏と4つの楽章がソナタ形式を採らず、ひじょうに自由に、また幻想的に描かれていることによる。ただしハープは重要な役割を与えられてはいるものの、やはりオーケストラの一員としての存在感に留まっており、華麗な書法によるヴァイオリンに比べれば控え目だと言わざるを得ない。
作曲の直接の動機は、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズがスコットランドの歌を収集し、1787年から1803年にかけて出版した全6巻、599曲からなる「スコットランド音楽博物館」に触れ、またスコットランドの作家ウォルター・スコットの作品に感銘を受けたからだと言われている。またブルッフは、もとよりスコットランドに興味を抱いており、自作上演のためにイギリスを2回にわたって訪問、直接自分の目で見たスコットランドの風景や風土に憧憬をもって接したからであろう。
全曲には夢幻的な雰囲気が漂い、しっかりした構成の上に甘美この上ない旋律が実に印象的に扱われる。その後ブルッフは、「ヴァイオリン協奏曲第3番ニ短調Op.58」や「ヴァイオリンと管弦楽のためのセレナードOp.75」も手掛けている。
1880年9月、ハンブルクのバッハ音楽祭において、パブロ・デ・サラサーテにより初演され、献呈された。
序章 グラーヴェ 変ホ短調 4/4拍子
冒頭、重々しい低音から始まり、その上にもの悲しく、しかし甘美な旋律が独奏ヴァイオリンによって演奏される。
第1楽章 アンダンテ・カンタービレ 変ホ長調 3/4拍子
「Auld Rob Morris(年老いたロブ・モリス)」というスコットランド民謡を基調としたモチーフが自由に展開する。
第2楽章 アレグロ 変ホ長調 3/2拍子
スコットランド民謡「Dusty Miller(粉まみれの粉屋)」を基調にし、舞曲的でスケルツォを思わせる楽章。
第3楽章 アンダンテ・ソステヌート 変イ長調 4/4拍子
スコットランド民謡「I'm a Doun for Lack O'Johnnie(ジョニーがいなくてがっかり)」をもとにした優美なテーマがじっくりと歌われる。
第4楽章 フィナーレ アレグロ・グゥエリエロ 変ホ長調 4/4拍子
まずロバート・バーンズの愛国的な歌「Scots wha hae Wallace bled(ウォレスとともに血を流したスコットランドの民よ)」が勇壮に提示され、比類ない躍動をもって展開、第1楽章の主題が回想されたり、叙情的なモチーフも挿入されながらクライマックスを迎える。
■ シューベルト 交響曲 第5番 変ロ長調 D485
1816年4月、フランツ・シューベルト(1797〜1828)はライバッハ(現在スロヴェニアの首都リュブリアナ)にある師範学校に音楽教員の職を求めて応募したが、あえなく不採用の通知を受け取った。既に教区の教会で、自作のミサ曲を指揮するなど際立った才能を見せていたシューベルトに、友人のフランツ・フォン・ショーバーは音楽芸術に生きる道を奨めた。将来の方向性を決意したシューベルトは父親の家を出て、まず10歳近くも年長の友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが下宿していたウィーン大学のヴァッテロート教授の家に転がり込み、その秋にはショーバーの家に世話になっている。それに伴い、自作曲の出版に向けての動きが具体的に出始めたのである。
そもそもそれまでのシューベルトは、自分の音楽的才能をもって世に出ようとする意識すらなく、溢れ出る楽想を単に友人との楽しみのために利用しているに過ぎなかった。学校を経営していた父親は、家族で室内楽を演奏するのが長年の夢であり、あまつさえ我が息子の作品でそれが叶うなど、望外の喜びだったからである。シューベルトもそんな父の期待に応えようと様々な作品を書いたが、むしろその才に驚き、世に知らしめようとしたのは周囲の友人たちであった。
友人たちは手始めに、詩人ゲーテにシューベルトの楽譜を送る。「魔王」、「糸を紡ぐグレートヒェン」を含む「ゲーテ歌曲集」などであったが、これは大詩人に無視されてしまう。けれどもヴァッテロート教授の聖名祝日を祝うための「プロメテウス」により、創作による生涯最初の収入を得たのもこの年であった。とはいえ、その後もシューベルトは実家を行き来し、父の経営する学校で教師を務めながら作曲家としての方向を模索するのであるが、実際に教職と決別できたのは1818年7月から11月にかけてである。ハンガリー系の大貴族、エルテルハージ伯爵の2人の娘たち、マリーとカロリーネにピアノを教える音楽家庭教師として、現在のスロヴァキア南部ジェリエゾフツェにある伯爵の別荘に赴任した時であった。けれども、それ以降も度々父の学校を手伝っていた形跡はある。書簡を差し出す際、不在の連絡先として学校の住所を記していたからである。
シューベルトが最初の交響曲に着手したのは1811年、未完に終わった「二長調D2B」からである。以降シューベルトの交響曲は、未完作品や消失してしまったものも多く、作曲時期と改訂時期、また出版時期がまったく異なったり、さらには後に他者が補作し、その版にも番号が与えられて出版されたりするなど、状況が極めて複雑に入り組んでいるため、交響曲の番号を正確に特定するのも難しい。ここでその経緯を説明する紙幅もないが、とまれ1813年秋から1818年春までに、シューベルトは6曲の交響曲(ニ長調D82、変ロ長調D125、二長調D200、ハ短調D417、変ロ長調D485、ハ長調D589)を書いた。それはほとんどシューベルトが通ったコンヴィクト(帝室王室寄宿制学校)のオーケストラなどが演奏するために作曲されたと考えられている。これらはいずれも木管、ホルン、トランペットが二管ずつ、そしてティンパニが加えられた編成であるが、この「交響曲第5番D485」については、フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、そして弦5部というティンパニも除かれた編成である。またこの時期の交響曲は、第1楽章に序奏が付けられていたが、やはり「第5番」については置かれていない。このように小編成で書かれたのは、おそらくシューベルトの友人であり、指揮者でヴァイオリニストのオットー・ハトヴィヒがアマチュア音楽家を集めて結成した私設オーケストラで演奏する目的であったと推定されるが、初演を含めて当時の公式記録はない。
いずれにしても「第5番」は、「第4番」が作られたと同じ年の1816年9月に作曲され、10月3日に完成されたと自筆譜に記されている。後に作曲者自身が「悲劇的」とタイトルした「第4番」とは趣を異にし、モーツァルトなどの古典派や当時人気を誇ったロッシーニなどの影響を強く受けている。気負いもなく、自然でみずみずしい息吹と優美極まりない情感が馥郁と立ち上る作品で、初期の交響曲の中でも人気が高い。
第1楽章 アレグロ 変ロ長調 2/2拍子
単純なソナタ形式ではあるが、第1主題はウィーンで聴かれる歌が元になっていると伝えられるように、ウィーンの瀟洒な雰囲気が横溢している。
第2楽章 アンダンテ・コン・モート 変ホ長調 6/8拍子
三部形式が用いられ、シューベルトらしい歌曲風の風趣に満ちている。
第3楽章 アレグロ・モルト ト短調 3/4拍子
スケルツォ風の実はメヌエットである。生き生きとした躍動感のある主部と、穏やかな中間部との対比が興味深い。
第4楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ 変ロ長調 2/4拍子
ソナタ形式で書かれた、軽快で華やかな楽章である。極めて古典的な手法を採っているが、変化と起伏に富みながら展開して全曲を閉じる。(C) 真嶋雄大(音楽評論)(無断転載を禁ずる)