2004年5月21日 第92回定期演奏会曲目解説

今夜はショスタコーヴィチの序曲と交響曲のあいだに、プロコフィエフの協奏曲がはさまっているかたちだが、演奏順に紹介することにしたい。

ショスタコーヴィチ:祝典序曲 作品96
 この曲は1954年11月6日、モスクワのボリショイ劇場で、アレクサンデル・メリク・パシャーエフ指揮の同管弦楽団によって初演された。ロシア革命37周年記念コンサートを飾る曲で、大至急仕上げてほしいと劇場からの急使が、インクの生乾きの原稿を持って帰ったと伝えられている。
 革命37周年とはいかにも半端である。ローレル・E・ファーイの『ショスタコーヴィチ ある生涯』という伝記によると、ショスタコーヴィチは1947年8月末に、来るべき革命30周年の記念式典のため「祝典序曲」を作曲した。レニングラード(現ザンクト・ペテルスブルク)でムラヴィンスキーの指揮で初演されるはずだった。10月には革命記念のための「祖国の詩」も完成させている。しかしどちらも日の目を見なかった。
 当時はスターリン指導の党中央委員会から、12年前に「ムツェンスク郡のマクベス夫人」という「好ましくないオペラ」を発表したことが、あらためて問題にされたようである。スターリンが亡くなった翌年にはじめて「祝典序曲」が委嘱されたのである。
 もちろん前作に手を入れたであろう。トランペットが明るく華やかなファンファーレを繰り返し、これが堂々とした総奏になる。一転して草原を多くの馬が走り回っているような、軽快で早い旋律が、はじめクラリネットで主奏され、つぎにヴァイオリンが反復する。3番目の旋律はチェロとホルンで始められ、なつかしくしかも晴れ晴れとした感じを与える。やがてファンファーレが合奏で回帰してきて、3番目の旋律が短く挿入されて終わる。ソビエト国家の偉業を讃えた作品と、たいていの解説には書いてあるが、それ以上に、ショスタコーヴィチの当時の晴れやかな心境を察することができるように思う。

プロコフィエフ:ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調 作品26
 ショスタコーヴィチが若いころから天才といわれたのに対して、プロコフィエフは鬼才といわれていた。プロコフィエフの方が16歳年長で、革命の動乱期に日本を経て米国に脱出、ヨーロッパにも渡り、モダニズムの寵児と騒がれた。しかし郷愁に耐えかね、1930年代の初め、ソビエト政権下のロシアに復帰した。
 ショスタコーヴィチは、はじめプロコフィエフを崇拝していたが、その情熱はまもなく冷め、お互いの音楽に対して、鄭重に批判を交わしあうだけの仲だったといわれる。プロコフィエフにとって不幸だったのは、スターリンより長く生き延びなかったことだった。1953年3月5日、奇しくもスターリンと同じ日に亡くなったのだ。前出の伝記には「1948年の苦しい試練を経て、教養のない迫害者たちとよりも、互いに通じ合う点があることを、ショスタコーヴィチが十分認識するようになったことは確かである」と記す。
 プロコフィエフのこの協奏曲は、ロシア革命の年、1917年に祖国で着手されたが、翌年祖国を脱出したため、完成したのはパリでだった。
 第1楽章はクラリネットの緩やかな主題、つづいてヴィオラからヴァイオリンが受け継ぐせかせかした主題に導かれて、ピアノが激しく鳴り出すあたり、さすがモダニズムの旗手の面目が躍如としている。第2楽章の叙情的な美しい主題につづく5つの変奏曲もみごとだ。第3楽章のロンド形式では、耳なれた「越後獅子」の旋律が聞こえて、あれ?と思わせる。日本滞在中に聴いた長唄の「越後獅子」にヒントを得たといわれる。「越後獅子」は随所で鳴りながら、強烈なリズムによって、終結に突進する。

 ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 ニ短調 作品47
 同じ5番であるため、よくベートーヴェンの「運命」と対比される。また比べられても遜色のない構成観と劇的な表現力を持っている。ショスタコーヴィチの150近い作品のうち、世界中でもっとも多く演奏される曲目の一つで、作品中の最高峰の一つとされる。1937年11月21日、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団によって初演され、好評を得た。
 こう書くと結構ずくめだが、ソビエト革命20周年のこの時期、ショスタコーヴィチは人生最大の危機に直面していた。有力な庇護者だったトゥハチェフスキー元帥が、この年5月、反逆罪で逮捕され、銃殺された。スターリンの粛清の嵐が吹き荒れ、ショスタコーヴィチ自身も取り調べられた。罪に問われなかったのは奇跡だといわれる。
 第5番はわずか3ヵ月で完成した。重苦しい雰囲気のなかで、異常なまでに精神を集中した。それが第1楽章の重々しく物語るような主題から雄大な行進曲への展開、第2楽章の巧みなスケルツォ、第3楽章の美しいラルゴ、第4楽章のリズムの大饗宴というあざやかな描き分けと、それを上回る統一感を生む原動力となった。人々は「社会主義リアリズムの成功」ともてはやしたが、自身は「芸術の政治への勝利」と感じたのではなかろうか。
(無断転載を禁ずる)(C) 雑 喉  潤(音楽ジャーナリスト)

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