2005年02月02日 第98回定期演奏会曲目解説
 今回は猿谷紀郎氏による委嘱作品をはさんで、シベリウスの交響曲2曲が演奏される。大阪シンフォニカーでは、前にオネゲルの作品と並んで、交響曲第2番を演奏したことがあるが、今回の第5番と第7番は、シベリウスの交響曲のなかでは、日本では演奏の機会のもっとも少ない2曲である。
シベリウスといえばフィンランドの民族叙事詩「カレワラ」に取材した「クレルヴォ交響曲」(交響曲のナンバーにははいっていない)や交響詩「フィンランディア」などが有名で、そのためフィンランド民族音楽の父と敬愛されてきた。交響曲第2番もその系列に属するものである。
またベートーヴェンの交響曲は、3・5・9と奇数ナンバーの作品が名曲とされるが、シベリウスは反対に2・4・6と偶数ナンバーの出来がよいといわれる。しかしこれはあまりに通俗的な評価にすぎず、5番と7番を、シベリウスが単に民族音楽家にとどまらず、より高い境地に達した証跡と見る人々が最近ふえてきた。あえて5番と7番に挑んだ大阪シンフォニカーの意欲を多としたい。

シベリウス:交響曲 第7番 ハ長調 作品105
 7番を先に持ってきたのは、一つの楽章だけの作品で、演奏時間も約10分と短いからだろう。あまりにも風変わりな交響曲であるため、これは交響詩であるという人もいる。さらに冒頭の主題が、イ短調の全音階、つまりラシドレミファソラシドレとつづき、最後のミが半音下がって終わるものなので、シベリウスも万策つきて音階を並べて主題にしたのだと悪口をいう人もある。事実、シベリウスはこの曲を1924年ストックホルムで自身の指揮で初演してから5年間に、わずか数曲の小品を書いただけで、1929年から28年の長い沈黙の月日を過ごし、1957年に亡くなった。
  風変わりなため、口当たりは決してよくないが、丹念に聴くと、まず密度の高さに驚く。冒頭の第1主題を取り巻いて、うねるように高揚してゆく楽器群の強音が、一転してゆるやかに流れるかと思うと、いつの間にかスケルツォ風に変化している。それが劇的に激しくなるあたりに、第1主題の断片が見えつ隠れつし、雄大に終結する。
ゆるやかさから急速調へ、やさしさから劇的高まりへ、あらゆる変化を示しながら、それらが強く結びつき、交響曲の四つの楽章の要素が、深いところで融合している。従ってこれは交響詩ではなく、立派な交響曲で、シベリウスの自分に対する内省のきびしさが生んだ珠玉のような名品といえよう。

シベリウス:交響曲 第5番 変ホ長調 作品82

 7番より約9年前の1915年、シベリウス生誕50周年をめざして作曲され、この年の12月、ヘルシンキで自身の指揮によって初演された。それより4年前に作曲された4番が、暗い幻想にみちていたのに対して、5番には親しみ深く華やかな一面もあり、ヨーロッパ、とくに英国では演奏機会が多い。
風変わりといえば、この曲も3楽章形式で、4楽章から成る近代交響曲の通念を破っている。シベリウスはリヒアルト・シュトラウスやマーラーのように、楽器群を増強して雄大華麗な効果をねらう作曲家ではなく、二管編成のなかで、内面的な表現に心血をそそぐ人で、この曲にも内面への回帰、自然への沈潜が読みとれる。しかし「フィンランディア」以来、シベリウスを民族音楽の旗手と仰いでいたフィンランドの人々にとって、この傾向はかならずしも好まれなかったようである。
 5番の第1楽章は森に代表される自然の、朝のめざめに、人間の生命力も躍動を始める状況を描いているようである。第2楽章では自然に触発された人間の意識が、懐疑とたたかいながら、次第に高揚する。第3楽章で、懐疑を振り払った人間は世俗の楽しみ、それの象徴のような祭りに回帰してくる。それでいいのだ、といっているように聞こえる。ただしこれはあくまでわたくしの主観的な聴き方だが――。

(無断転載を禁ずる)(C) 雑 喉  潤(音楽ジャーナリスト)
 猿谷紀郎:音の風韻 II for Oboe Guitar and Orchestra (大阪シンフォニカー交響楽団委嘱作品)

  2000年の出光音楽賞10周年の記念コンサートの際に委嘱を受け、その時、同賞を受賞したオ−ボエの古部氏とギターの鈴木氏の為に作曲した「音の風韻」から4年たって、今回同じ演奏者とオーケストラに「音の風韻 II」を作曲する機会を与えられました。このデュオの曲は、演奏家の尽力により、再演がとても多くなされた作品で。それにまして今回このような事になったのはとても珍しく、大変幸せな曲だと思います。作曲するにあたって、ただ単純に“デュオプラスオーケストラの伴奏”となる可能性もあったのですが、既に4年と
いう時間が流れてしまった今となっては、それはまるで白黒で完成していたものに、無理矢理天然色を付けて売り物にしている古い映画のような印象を与えかねはしないかという、自分なりの危惧が、少し違ったものを私に書かせたがっているようでした。4年という時間は、人を成長させるのか、退化させるのかはわかりませんが、変化させる事は間違いないようです。題名からもわかる様に、もとの作品を意識しているのは明らかなのですが、初めの曲とは違う、新しい作品になったと思っております。それはつまり、オーケストラには伴奏というよりもむしろ、新しい第3者という役割をもってもらう事にしました。それは初めの作品のエッセンスを抽出して、それをうらごししたような印象が表れたなら幸せです。基が同じでも違った花を咲かせるというような、統一性と多様性は、作曲家が常に考えている音楽の永遠のテーマなのかもしれませんが、今回もその答えの一つの可能性であると考えております。題名の「風韻」とは、その文字どおり風格、尊厳を意味します。3者により創りだされる音の風格が、夾雑物を取り除き、打ち消しながら少しでも何ものかに近付きたいという心構えの私の作品に、新しい可能性を吹き込んでくれる事と信じております。

(無断転載を禁ずる)(C)猿 谷 紀 郎

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