「重み」と「軽さ」のあいだで
ものの「重さ」というのも、時代によって変わるらしい。  たとえば言葉。今の日本ほど、言葉が「軽く」扱われている時代も珍しい。意味曖昧なカタカナ語が乱れ飛んでいるのは御馴染みだけれど、さらに情けない状況は役所にある。役所の文書には腹立たしいほどカタカナ言葉が氾濫している。「地域カルチャーのニーズにこたえ、ベターでクリエイティブなアートを…」「コンサートのアウトリーチのシフトを…」。こんな書類が普通にある。役所が率先して言葉を壊していってどうするのだろう。それでなくても若者達は、外国語のほうが「かっこいい」くらいに勘違いしているのに。誰にも、自分が生まれ育った国の言葉がいちばん確かで美しいのに。粗雑に使うカタカナ語は日本語を忘れさせ、語彙を減らし、やがて滅ぼしていく。
 命の「重さ」も変わる。母国語が「軽く」なれば、自分の国の人々の命までも 「軽く」感じる連中が出る。言葉の荒れは国の荒れを招く。
 時の「重さ」も変わった。人が長年の時間を積み重ねる行為より、便利で効率的ですぐに使い捨ての時間が流行する。人が積み重ねる時間を軽視することは、これもまた、それぞれの人生、つまり命を軽視することだ。これだから、不可解な犯罪も増えるのだろう。
 そうして音楽。古典音楽の「重み」の世界も今、流行が目まぐるしい。古楽器、オリジナル楽器、ピリオド楽器と、演奏の呼び名もすぐに移り変わり、楽譜の異稿も山ほどある。それは確かに考古学的なんだけれど、どこかで美食三昧に飽きた食通が、珍奇を喜んでいる風情がある。普通の聴き手が不在なのだ。
 しかしここに、通好みの流行や好奇心でなく、まず「普通の聴き手」の愉しみが存在して、そのうえで、ひと皮むけば驚くほど筋の通った学究的態度も脈打っている演奏会がある。あなたが今、腰掛けている演奏会、曽我大介と大阪シンフォニカー交響楽団の「古典派の現在(いま)」だ。
 たとえば第1回では、ハイドンの交響曲の第1楽章と第2楽章のあいだに、協奏曲や室内楽が入るという、ベートーヴェン以前の時代の「軽い」交響曲の扱い方が再現された。しかも協奏曲や室内楽のあと、舶来の独奏者が、楽団の末席で交響曲の演奏にも加わるという、和やかでいて楽団には良い刺激になる試みがなされていた。最小限に人数を絞りこんだ少数精鋭の舞台も、無添加純正での大阪シンフォニカー交響楽団の品質を、改めて証明する。
 この舞台は爽快だ。変わらぬ古典の魅力と、重みと軽さの、美しい出会いがある。
(c) 響 敏也 [作家・音楽評論家]

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