聴くしあわせをかみしめて
東京に住んではいるが、過去3回の「古典派の現在(いま)」演奏会に皆勤しているから、かなり熱心な聴き手であると認められたらしい。
 音楽の世界で、ことばの定義には、むつかしい人が多い。なかにはバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの線しか認めないのは、日本の音楽教育の偏りの結果であり、イタリアやフランスを無視するとはなにごとであるか、といううるさい方もいらっしゃる。これは一面の真をうがってもいる。しかし幼いころからの音楽鑑賞(の偏向?)の結果、このシリーズで採り上げられているハイドン、モーツァルト愛好者が、日本では非常に多いのは、あながち非難されるべきではない。むしろ結構なことである。
 うるさい方々の追及をかわすためには、ハイドン、モーツァルトは「ウィーン古典派」といえば無難であろう。ベートーヴェンは古典派なのかロマン派なのか。こういう議論を始めると、一冊の本になってしまう。第4回もハイドン、モーツァルトなので、このあたりに腰をすえて、いい演奏を聴かせてもらいたい。
 ハイドン、モーツァルトの交響曲や協奏曲、室内楽が、いずみホールという約800席の、200余年前のウィーンの会場よりひとまわり大きいぐらいのホールで聴けるというのは、たいへん幸福である。この意味をもう少し考えてみたい。文学に例をとろう。曲亭馬琴はモーツァルトより11年遅く生まれ、ハイドンより39年遅く亡くなって いる。いわばウィーン古典派と同時代人である。
 馬琴の「南総里見八犬伝」は、市川猿之助一座が、東京・大阪の歌舞伎座で公演するたびに、多くの観客を集めている。しかしこれは現代人によってアレンジされた 「八犬伝」である。岩波文庫で10冊の原文を、くつろいだ気分で読み通せる人が、日 本人に何人あるだろうか。夏目漱石の「虞美人草」に翻訳が要るご時世である。浮世絵の大家、葛飾北斎の前半生はほぼモーツァルトと重なるが、「美術の現在(いま)」 と意識されているだろうか。
 こう考えると、ハイドン、モーツァルトが、ほぼそのままのかたちで演奏され、若者も熟年も享受できるとは、実はたいへんなことなのである。たいへんなことによって、演奏者は基礎技術を磨いていただき、聴く方もあらためて「現在(いま)」をか みしめたい。
(C) 雑喉 潤 [音楽ジャーナリスト]

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