古典派のスタイル感覚
古典派の演奏はモーツァルトの200年忌にひとつのピークに達した。モーツァルトに明け、モーツァルトに暮れた一年だったが、本命の外来演奏家からお手軽便乗組まで、演奏様式もさまざまで、実のところ何でもありの様相だった。なかでも圧巻がインマゼルのピリオド楽器によるピアノ協奏曲全曲の弾き振りで、モーツァルトの再来とは言わないが、まったく別世界の体験だった。 
学生時代からマドリガルやリュート・ソングなど、シェイクスピアが舞台で使った音楽に興味があったので、古楽には特別の関心がある。カウンターテナーを復活したアルフレッド・デラーからエマ・カークビーまで、演奏会を追っかけたこともある。カークビーなどはロンドンの家まで押しかけて、リュートの背の君ルーリーにルネサンス期の演奏スタイルについて話を聞いた。もう20年以上も前のことだが、その時すでにピリオド楽器による古典音楽の再評価はモーツァルトからベートーヴェンにも及ぶというのが新しい話題だった。 
しかし楽器を復元し、奏法を探り当て、時代の演奏を復活しても、聴衆は蘇生しない。これは音楽に限らない。能のような古典芸能でもシェイクスピア劇でも、状況は同じだ。生きた聴衆・観客に評価されなければ、せっかくのパフォーマンスも博物館ゆきである。 むしろ危惧するのは古楽の現在ではなく、古典の現在である。モーツァルト年のあと、若い演奏家はモーツァルトを見失ってしまったようだ。耳タコで食傷したのか、何でもありを現状認識にしたのか、古典派のスタイル感覚が分からなくなってしまったとしかいえない演奏を聴くことが多くなった。世紀が代わり、クラシック音楽はいっきょに百歳老けて、演奏家は浦島太郎のように大切な故郷を失ってしまったのだろうか。 
そんなときに曽我大介と大阪シンフォニカーの「古典派の現在(いま)」は当を得た企画である。ハイドンやモーツァルトのスコアは明快で、誰でもすぐ弾けるように見える。しかしスコアは音楽の略図か覚書で、実際のスタイルは演奏家が具体的な音楽に創造するものだ。ジャック・ルーシェやジョン・ルイスのバッハは自分のスタイルに変換した古典の読みなおしで、それなりに面白いが、「古典派の現在(いま)」は方向感覚を失った現在の演奏家と聴衆に古典派のスタイル感覚を蘇らせる野心的な企てと期待する。
(C) 鴫原 眞一 (音楽批評家)

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