今日演奏されるハイドンやモーツァルトといった、いわゆる古典派の作曲家たちの 作品の楽譜と、ロマン派以降、特にマーラーやブルックナーといった後期ロマン派の作曲家たちや、バルトークやストラヴィンスキーといった20世紀の作曲家たちの作品の楽譜を見比べられたことがおありだろうか。後者たちの、演奏のための指示がこまごまと書かれ、めまいを起こすほどたくさんの音符が並べられた複雑な楽譜に比べ ると、ハイドンたちの楽譜は、強弱記号や発想記号がさほど多くないだけではなく、 音符そのものの数も後者たちのものに比べると圧倒的に少ないことに驚かれるかもし れない。
それでは皆さんは、このどちらが演奏するのがより難しいとお考えだろうか。もちろんどちらも易しくはないのだが、一般的にみれば後者の複雑な楽譜を演奏する方が圧倒的に難しいと思われるのではなかろうか。しかしそれは必ずしも当たっていない。 複雑な楽譜は確かに高度の演奏技術を要求する。それをこなすには相当の技術練磨が必要だ。しかし現代のオーケストラが持つ高度の技術レヴェルからすれば、複雑な楽 譜を音化する事や、その結果としてそれなりの音楽に纏め上げることは必ずしも難しいというわけではない。
ところがそうした高度の技術を持つオーケストラにすら難しいのが、むしろハイドンのような古典の音楽なのである。マーラーのような複雑な音楽で圧倒的な感銘を与え得るオーケストラや指揮者が、どうしてあの簡潔なハイドンで聴衆に精神的満足感を与えることが難しいのか。それはハイドンのような音楽では、演奏者(解釈者)の 一人一人が、その少ない音符や指示を主体的に受け止め、さらには音符の行間(音間? )までをも読み、それに答えを出すだけの深い音楽理解(その音楽の歴史的背景や奏法、さらには音楽的構造に対する)や一つ一つの音に内的充実をもたらす高い音楽性が要求されるからなのだ。
ハイドンたちは、まさに必要にして不可欠な、それでいて十分な音の数で勝負をしていた作曲家たちなのであり、だからこそ彼等の音楽は古典(普遍的規範)の名にふさわしい音楽となりえたのだ。これを満足に演奏することは、実は口で言うほど易しいことではない。しかしだからこそ演奏し続けなければならないし、演奏する値打ちもある。それをやり続けている大阪シンフォニカー交響楽団が、その力を確実に伸ばし続けているのも当然のことだろう。