緊密なアンサンブルを獲得した時、どんな複雑なテクスチュア、どんな巨大編成の作品を演奏しても、オーケストラは濁りなく、さながら一つの楽器のように響く。前音楽監督の曽我大介が「古典派の現在」を開始したのは、基本であるアンサンブルを一から見直して、大阪シンフォニカー交響楽団を一つの楽器にするための試みなのである。
「古典派の現在」の凄さは、一つの定期シリーズを“古典三昧”にしたところにある。ハイドンの交響曲をメインに据え、それにモーツァルトの協奏曲をカップリングする。なお説得力があるのは、その協奏曲のソロはシンフォニカーの首席奏者を中心にしているということである。オーケストラが一つになってアンサンブルを育むという意気込みが強く感じられる。“言うは易く行うは難し”。そういう曽我の意思をく理解した事務局も含めて、天晴れである。
だからこそ、新しいシェフに大山平一郎を選ぶという秀逸な人事が行われたのであろう。大山は、ここ数年がもう一度基礎を見直す最後のポイントであり、それを徹底すればこそ先に進めると語る。再来年度のモーツァルトでは大半を振りたいと意欲的だ。この遅咲きのマエストロはオーケストラの機能美を熟知したプロ中のプロだ。私は、オーケストラビルダーとして数々のオーケストラを鍛え上げたアンタル・ドラティと大山がどうしてもダブる。大山が目指すものは、どんな指揮者が来ても、一を言えば十を悟り、十を言ってもそれはおかしいと言えるような、しっかりしたアイデンティティを持った、指揮者にとって“こわい”オーケストラである。大山は既にその確信を得ている。「古典派の現在」で曽我が目指したものは、この名伯楽に引き継がれ更なる大きな成果への期待がふくらむのである。かつて、ユージン・オーマンディ指揮するフィラデルフィア管弦楽団を初めてナマで聴いた時、曲の最初の和音が、コンマスのノーマン・キャロルから、豊かな響きの一つの束になって矢のように私の耳に届いたのに震撼した。私は、シンフォニカーがそういうオーケストラになるという夢が、大山の豊かな経験と知識を得ることによって大きく拓かれたと感じるのである。
そういう意味で、「古典派の現在」は、間違いなく大阪シンフォニカー交響楽団の未来(あす)を拓くと言うことができるのである。