様式感を持つためには
演奏家、とりわけ日本人の演奏家に、古典派演奏を話題にインタビューをしていると、頻繁に漏れる発言がある。曰く、「ハイドンやモーツァルトなどの古典派演奏にとって、なによりも大切なのは様式感です。」
 なるほど、とその場ではあいづちを打ってしまうのだけど、冷静に考えると、よく分からない言葉でもある。「様式感」って、いったい何なのだろうか。
 否定的にならば容易に感じられるみたい。つまり、ある演奏に接し、「ああ、これはどうもハイドンっぽくはないなぁ」とか、「この人のやってるモーツァルト、まるでド演歌じゃないか」とか、呆れ果てるのは簡単。でも、ひるがえって、「これこそ真にモーツァルト様式を体現した演奏である」なんて心から思うことは、あまりない。70年代終わり頃のベーム翁指揮するヴィーン国立歌劇場のモーツァルトだろうが、ヴィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団の「皇帝」だろうが、「様式感」で感動した記憶などまるでない。まあ、筆者が何も判らぬ唐変木である可能性は極めて高いので、声高にそう主張する気はないけれど。
 ごく普通に言えば、「様式感」とは「全体をそれらしく感じさせる音楽の佇まい」だろう。分析すれば、和声のどの音を強めに鳴らすかとか、調性によって音程をどのように微調整するかなど、音楽構造を明快にする配慮に始まって、フレーズの始め方や納め方、リズムの揺らし方、間の取り方、声部のバランスなど、演奏現場での趣味と紙一重の微妙なサジ加減に至るまで、無数の要素が集積された全体像が様式。
 美術の世界では、科学的データはどうあれ、最終的な真贋の判断はホンモノを良く知る人の直感が頼りと聞く。どうやら様式感を鍛える唯一の方法は、紛う事なきホンモノに無数に接すること以外にはないらしい。
 でも、ヴィーンやミラノに留学して朝から晩まで音楽を聴いているわけにはいかぬ。東洋の島国に暮らすものにできるのは、なによりもまず、ライブで古典派の演奏に接すること。どんなに多数の名画を眺めようが複製や写真ではダメなように、ともかくライブであることが大事だ。そのうちに、「これはちょっと変だ」とか、「この演奏は腑に落ちる」とか感じるようになるものだ。
 演奏家とすれば、この大阪シンフォニカーのシリーズを延々と続ける。聴衆とすれば、延々といずみホールに通い続ければ良い。まずは、「トルコ風」と副題される協奏曲で「ああ、確かにここはトルコ風」とモーツァルトの仕掛けにニヤリとできれば、古典の様式が少しは嗅げるようになった証拠。さて、いかがでしょうか。
(C)渡辺 和 [音楽ジャーナリスト]

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