「古典派は現在 (いま)」?
大阪シンフォニカー交響楽団による【古典派の現在】シリーズの11回目、オラトリオ《天地創造》が演奏されたときのこのリレー談義に、その一部を学生時代歌ったことがあると大阪大学の根岸一美さんが書かれていた。実は私も学生時代、交響曲創作の筆を置いたあとのハイドンが《天地創造》に次いで1801年に作曲した2曲目のオラトリオ《四季》の第2曲〈来たれ、春よ〉を合唱体験したことがある。もう30年以上も前のことなのでよく覚えていないが、指定はアレグレットなのに随分ゆっくりと演奏したこともあって、穏やかで牧歌的な曲だという印象を抱いた記憶が残っている。
 何もわかっていなかった当時の私と比較するのもおこがましいが、《四季》を一言でまとめた大方の評も私の感想とよく似たものだ。ところが、2時間を超えるこの曲の内実はそんな単純な言葉で到底まとめられるものではない。確かに結果的には神の恵みへの感謝が祝祭的に謳われているものの、四季折々生活する農民の生活、心情が描かれるがゆえに音楽は起伏に富んだものとなっていて、一貫して田園的であるわけではないのだ。芽吹く春の喜びだけでなく、夏の嵐もあるし、冬の厳しさもあるのが生活というものだから。
 ハイドンはさらに、そこに「いのち」を注ぎ込む。ここでいう「いのち」とは「生き生きとした」という感覚レベルのものを生み出す、いま、まさに、ここで、共に、「生きている」という時間体験なのだ。先に挙げた〈来たれ、春よ〉は単に穏やかだけではないし、夏の〈ああ、嵐が近づいた〉などでは本当にどきどきしないだろうか。  私が古典派音楽の演奏を聴くとき期待するのは、この「いま」「まさに」という時間体験なのである。その意味でいうと、「古典派の現在(いま)」は「古典派は現在(いま)」と言い換えたい衝動に駆られる。
 余談だが、この曲には、例えば「春」の第6曲目にモーツァルトのレクイエムが引用されているなどハイドンは様々な仕掛けを潜ませている。それらについて、なぜ、といったことを考えるのも、《四季》を聴く際の楽しみの一つかもしれない。
(C)網干 毅 [関西学院大学教授・音楽学]

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