音楽の使いこなし
18世紀の作曲家、つまりバロックや古典派の作曲家には、自分の芸術的な意欲から、作品を世に問うという思想はなかった。音楽は注文によって生産され、使い捨て的に消費されるものだったのである。当時の音楽は鑑賞されるのを目的に書かれたのではなく、ある目的に奉仕するために書かれた。多くのセレナードやディヴェルティメントは、食卓用の音楽だったし、宗教音楽は冠婚葬祭に実際に使われたし、交響曲ですらコンサートに遅れて来る人たちへのサーヴィスのための序曲だった。中にはバッハの「ゴルトベルク変奏曲」のように、催眠用に書かれた曲だってある。つまり18世紀の音楽は、芸術作品ではなく、実用音楽・機会音楽であった。この当時鑑賞の目的とされたのは、オペラを始めとする声楽曲だけである。
 このような18世紀のバロックや古典派の音楽を、19世紀以降のロマン派や近代音楽のように、ただ耳を澄まして聴き入るのみというのは、時として矛盾と疑問を感じてしまう。バッハやモーツァルトが書いたように、実用音楽として捉え直したらどうだろう。例えば朝起きぬけにモーツァルトのディヴェルティメントK.136を聴くとか、家族揃ってのディナーにはやはりモーツァルトのセレナードか、ディヴェルティメントを会話の邪魔にならぬように、BGMとして流してみるとか、また眠れぬ夜には「ゴルトベルク変奏曲」でも、タイマーをセットして、聴きながら眠りにつくというのはどうだろう。少なくとも天井の節目を数えながら寝るよりは、余程優雅であることは確かだろう。
 つまり音楽にただ耳を傾けるだけでなく、音楽を生活に取り込んで、使いこなしてしまおうというわけである。これは決して、芸術に対する冒涜などではない。バッハやハイドン、またはモーツァルトなどの作曲家は、本来そういった目的に奉仕するための音楽を書いていたのである。作曲家が自分の芸術的な意欲で、作品を発表するようになるのは、19世紀のベートーヴェンの中期以後の時代になる。本来目的も価値判断の基準も違う、2つの世紀に跨る音楽を同じクラシック音楽として、同一視して論じるのは、どだい無理がある。職人芸に支えられていたバロックや古典派の音楽と、芸術として認知された19世紀以降の音楽は、一度切り離して考えてみる必要があると、筆者は常日頃から思っているのだが……。る。それらについて、なぜ、といったことを考えるのも、《四季》を聴く際の楽しみの一つかもしれない。
(C)出谷 啓 [音楽評論家]

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