■大阪シンフォニカー交響楽団-楽曲解説DB
ハンス・ロット:交響曲第1番ホ長調
Rott, Hans: Symphonie Nr.1 E-Dur
演奏時間:60'
楽器編成:2223(K-Fg)/4330/Tim,Perc(Trl)/Str
■ロット(1858-1884): 交響曲第1番 ホ長調
ベートーヴェンによって、交響曲はいわゆる「クラシック音楽」の代名詞と化した。特にドイツ語圏の作曲家にとって、自分の目指す究極のジャンルは何を置いても交響曲。それもベートーヴェンの如く、人生の勝利を目指す音楽の「旅」であろうとした。だから交響曲を作るということは、ベートーヴェンその人が体験した以上にプレッシャーのかかる仕事となってゆく。ブラームス(1833‐1897)などは典型的な例であって、1876年に交響曲第1番を完成・初演させるまで、実に20年以上もの歳月を要してしまった。
このブラームスだが、交響曲第1番の完成と相前後して、奨学金やコンクールの審査員に選ばれ、押しも押されもせぬウィーンの音楽界の重鎮となる。芸術家奨学金
(ハプスブルク帝国文部省主催)、ベートーヴェン作曲賞(ウィーン楽友協会主催)などがそれだった。
逆に若手作曲家にとってみれば、ブラームスに認められるか否かが、音楽家人生を左右することとなってゆく。その一人がロット(1858‐1884)であって、彼は前述の奨学金ならびに作曲賞に応募を試みた。さらにブラームスの力添えを頼むべく、彼のもとを訪れた。
だがブラームスの評価は、期待とは裏腹に手厳しいものだった。絶望の淵に立たされたロットは、アルザスの小さな町に合唱指揮者として赴任すべく乗り込んだ列車の中で、ブラームスが爆弾を仕掛けたという妄想に捕らわれる。挙句の果てに、煙草に火をつけようとした他の乗客を、危険だからとピストルで制止、そのまま精神病院送りとなった。以降は精神の闇に閉ざされたまま25歳で息絶え、作品も陽の目を見ぬまま埋もれてしまった。
ロットがブラームスから酷評を受けた背景には、当時のウィーン音楽界を二分していたブラームス派とブルックナー派の対立を見逃すわけにはゆかない。こともあろうに、ロットはブルックナーにオルガンを学んでいた。さらに彼は、ブルックナー同様ワーグナーの崇拝者でもあったから、アンチ・ワーグナーを標榜するブラームス派(その筆頭は評論家のハンスリックで、彼も上記奨学金の審査員だった)にとってみれば、敵そのもの。音楽院の卒業に際して行われた作曲コンクールでも、ブルックナー以外の審査員から冷笑を買い、落選するという事態を引き起こした。
対して、ブルックナーは次のようにロットを弁護したそうである。「皆さん、どうか笑わないでいただきたい。あなた方はいずれこの若者から、もっと偉大なものを聴くことになるのだから」。ちなみにこの時提出された作品こそ、交響曲第1番の第1楽章であった。
とはいえ、ロットに対する道が完全に閉ざされたわけではなかった。音楽院のコンクールに続きベートーヴェン作曲賞にも落ちたものの、彼は奨学金を貰える運びとなったのである。ただしその通知が来た時、既に彼は発狂した後であって、もはや全て手遅れだったのだが。
ということは、ロットがブルックナー派(さらにいえばワーグナー派)だったからという理由で、ブラームスに酷評されたと考えてしまうのは早計というものだろう。
じっさいハンスリックは奨学金審査員を代表し、ロットに対して次のような期待を寄せていた。「作品を見れば分かる通り、彼の才能は未だ明晰とは言い難いが、鮮烈に訴えかけてくるものがある。その若さや真摯な作曲ぶりから、これから先、優れた働きを期待できよう」。
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「未熟」と「鮮烈」、それはそのまま交響曲第1番にも当てはまるキーワードである。何しろあのブラームスでさえ、ようやく音楽界の重鎮になろうかという時期になって、最初の交響曲を完成させたのだ。それを、20歳そこそこの若者が手がけるなんて!
だが、このことこそがロットの交響曲の魅力だとも考えられる。未熟さと鮮烈さとが背中合わせになった若書き、と言えばよいか。
例えば様式的には、ブラームス、ブルックナー、ワーグナーといった、同時代を代表する作曲家からの影響が、そこら中に顔を覗かせている。ただしそれが単なる真似事に終わらず、友人であったマーラー(1860‐1911)を先取りして、広大な世界を包括するような「宇宙的交響曲」たりえている点が特徴だ。
以下、幾つかの譜例を挙げながら、全曲のポイントを押さえてゆきたい。なお、楽器編成は以下のようになっている:フルート2、ピッコロ1、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラ・ファゴット1、ホルン4、トランペット3、トロンボン3、ティンパニ3、トライアングル1、弦5部。演奏時間は解釈にもよるが、約1時間前後である。
第1楽章 アラ・ブレーヴェ(2/2拍子) ホ長調 ソナタ形式
弦楽器のアルペッジオに乗って、ソロ・トランペットとソロ・ホルンが、第1主題を静かに呼び交わす(譜例1a・譜例1b)。ちなみにマーラーの交響曲同様、トランペットとホルンのソロがそこかしこで啓示的な役割を果たしてゆく点に注目。またそれを彩る弦楽器のアルペッジオも、ワーグナーの楽劇のごとく、穏やかに揺れる波や光を想起させてくれる。
歌謡的な第1主題は、やがて不安定な和声の中に迷い込み、調性と無調とのあわいを漂うような第2主題が出現(譜例2)。だが音型に注目すると、これが第1主題から派生したものであることが分かる。この楽章に限らず、全曲を通じて第1主題の動機が生きている。
第2楽章 3/4拍子 イ長調 きわめてゆっくりと
マーラーの交響曲第3番のフィナーレに先駆けたともいえる、アダージョ楽章。弦楽器によるコラール風のメロディは、やがてフル・オーケストラに引き継がれ、祈りと嘆きが交差する。中間部では苦しみにみちたモチーフが錯綜し、ついにはティンパニを伴った強烈な不協和音が叩きつけられるが、再び静けさが戻る。
第3楽章 3/4拍子 ハ長調 鮮やかに活き活きと
ホルンの雄叫びで始まる、ブルックナー風の「狩の」スケルツォ。管楽器の前打音を伴った響きで、ブルックナー以上にグロテスクな百鬼夜行をイメージさせる点が強烈。トリオでは、マーラーさながらの「自然の音」が聴こえる。再びスケルツォが戻ってくるが、最初よりも拡大され、構造的にも複雑怪奇を極める。
第4楽章 4/4拍子 イ短調/ホ長調 きわめてゆっくりと/生気に満ちて
低弦のピツィカートに乗り、今までの楽章が幻の如く回想される長い序奏部(ベートーヴェンの交響曲第9番のフィナーレと同じ)を経て、これまたブラームスの交響曲第1番のフィナーレを彷彿させる歓喜の主題が弦楽器に現れる(譜例3)。程なくフーガが展開され、解決和音で終止したかと思いきや、再び始まるといった具合に、延々と「旅」は続く。
ついに fffff(!)で頂点を迎えた瞬間、今度は ppppp(!)にまで音量が減衰。コーダが静かに始まり、第1〜第4楽章の主題が同時演奏されるというブルックナー風のクライマックスを築くものの、そこで終わらないのがこの交響曲の斬新さだろう。第1楽章冒頭のアルペッジオを弦楽器が奏でる中、曲は穏やかな光の中へと戻り、静寂の中に消えてゆく。
戦いから勝利の大団円へと至ることを運命付けられたベートーヴェン以来の交響曲。
この作品はそうした交響曲に、これまでにない新たな「旅」の可能性を切り開いた。闇から光へではない。光から出て、再びあのなつかしい光へと還って行く旅を…。
…そしてロットの死後100年以上を経た1989年、アメリカのシンシナティで、交響曲第1番は初演された。忘却の闇に葬られた作品は、新たな命を得て旅立ったのである。
〈ロット年表〉
1858年 8月5日女優の私生児としてウィーンに生まれる
1860年 実母の死
1862年 俳優である実父の再婚により、正式に息子として認知される
1872年 継母の死
1874年 実父の怪我で生活困窮。ウィーン音楽院に入学(オルガンをブルックナーに師事)
1875年 ウィーン・アカデミー・ワーグナー協会に入会
1876年 ピアリステン教会オルガニストに就任。実父の死。バイロイト音楽祭を訪問
1878年 交響曲第1番着手。ウィーン音楽院卒業に際し、作曲コンクールで第1楽章が演奏されるも、賞を逃す。
ピアリステン教会オルガニストを辞任し無職に
1879年 ウィーン・アカデミー・ワーグナー協会を退会 ベートーヴェン作曲賞に応募
1880年 交響曲第1番完成。遺書を作成。ブラームスを訪問。芸術家奨学金およびベートーヴェン賞に応募。
ウィーン一般病院精神科に入院
1881年 ニーダーエスタライヒ州精神病院に転送。芸術家奨学金の授与内定
1884年 6月25日ニーダーエスタライヒ州精神病院で死去。享年25
(C) 小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家 横浜国立大学准教授)(無断転載を禁ずる)(無断転載を禁ずる)(C)