■大阪シンフォニカー交響楽団-楽曲解説DB
ジークフリート・ワーグナー(1869〜1930)
歌劇《異教徒の王》間奏曲《信仰》
Siegfried Wagner: "Der Heidenkoenig" Intermezzo
 《異教徒の王》は、1913年に作曲された全3幕のオペラ。物語は16世紀、プロシアに征服されたポーランドが舞台。異教徒プロシアとカトリックであるポーランドの劇的な戦いに宗教者の在り方を絡めて、「何を拠り所として信仰をするのか」という疑問を突き詰めてゆく。さらに、因習的な観点では不純とみなされるような新たな流行や考え方に共感を覚えるが故に、自らが真に伝統的な宗教の代表者なのかと疑念を抱く王ラダマールは、一種の権威の象徴となったバイロイトに、新たな風を送り込もうと奮闘したジークフリート自身の姿を投影しているかのようだ。
 このホ長調の間奏曲は、第1幕のプレリュードへとつながってゆく。コラール風のゆったりとした主題での「アンダンテ・レリジョーソ(敬虔に)」との指示は、《信仰》というタイトル自体と密接なつながりがある。たゆたうような副主題は信仰者の魂の迷いを示し、曲も中盤を過ぎると、最初のコラール主題がより力強くトゥッティで奏される。そして最後、静かにホルンでいま一度繰り返されるコラールが魂の救済を告げる。
ジークフリート自身は生前、この作品を全曲通して聴くことは一度もなかった。ただ、この間奏曲を含めた抜粋版を演奏会形式で耳にしてはいる。全曲初演は作曲から20年後、ケルンで行われた。児玉は普段からこの作品をレパートリーとしても大切にしており、ゾーリンゲン市立交響楽団やポーランド室内合唱団などと録音した全曲盤(MARCO POLO)は今のところ世界で唯一。演奏自体も高い評価を得ている。
(C)寺西 肇(音楽ジャーナリスト) (無断転載を禁ずる)
ジークフリート・ワーグナーは、大作曲家リヒャルト・ワーグナー(1813〜83)と妻コージマ(1837〜1930)の長男として、スイスのチューリッヒで生まれた。母方の祖父はやはり大作曲家のフランツ・リスト(1816〜81)。既に56歳になっていた父親は、息子の誕生をことのほか喜び、幸福感に満ちた佳曲《ジークフリート牧歌》(1870)を書いている。12歳で祖父から和声学を学ぶなど早くから音楽教育を受け、20歳からは父親の弟子であり、歌劇《ヘンゼルとグレーテル》でも知られるエンゲルベルト・フンパーディンク(1854〜1921)に音楽理論と対位法を学んだ。しかし、父親は決して音楽家になることを強要しなかった。ジークフリートは音楽の勉強を続けつつも、ベルリンとカールスルーエで建築学を学んだ。しかし1892年、友人のイギリス人作曲家でピアニストのクレメント・ヒュー・ギルバート・ハリス(1871〜97)を伴っての東アジアへの旅行をきっかけに建築の道を諦め、音楽の道に進むことを決意した。
ジークフリートの功績は、まずバイロイト音楽祭における父リヒャルトの作品の指揮者・演出家としての活動が挙げられる。1896年にリング全曲でデビューし、母コージマが引退後の1908年には音楽祭の終身芸術監督に就任。特に、第一次大戦後に開かれた音楽祭では、簡素な舞台装置に最新の照明技術を用いて聴衆のイマジネーションに訴えかけるような、今日のバイロイトにも引き継がれている斬新な演出を採り入れた。
作曲家としては、自ら台本も手掛けた歌劇をはじめ、《交響曲ハ長調》(1925)や交響詩、協奏曲など多くの作品をのこしている。生前は何度か再演されたようだが、死後は忘れ去られた。それは、第二次世界大戦に向かうドイツの不幸な歴史の中で、父親の作品が政治的に利用され、戦後は一部の人にとって嫌悪の対象となったこととは決して無縁ではないだろう。実際にはジークフリート本人はナチス政権と距離を置いていたものの、イギリス人の妻、ヴィニフレート(1897〜1980)がヒトラー一派と親しい関係にあったことも、この誤解に拍車をかけた。
しかし、作風的には父よりもむしろ師フンパーディンクの影響が色濃く、童話的で人懐こい表情を見せている。それは、傲慢で偏見に満ちた父親とは対照的に、誰からも好かれた人柄の良さも大いに影響しているだろう。それは、蔓延するファシズムに対して公然と抵抗の姿勢を示したイタリアの大指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867〜1957)ですら、ジークフリートの依頼には応じ、バイロイト音楽祭への出演を承諾したほど。もっとも、そのステージが実現したのは、ジークフリートの死の4日後のことだった。

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