19世紀に勃興した民族主義の高揚により、各々の民族固有の音楽に根ざした芸術音楽が盛んになった。つまり、単にメロディとして民謡が用いられるだけでなく、リズムや和声に至るまで民族固有の要素が盛り込まれた音楽が数多く書かれたのだ。これが、いわゆる「ナショナリズム」が台頭する中であらわれた、「国民楽派」と呼ばれる作曲家たちの活躍である。
19世紀のチェコは、ドイツと接する西部のボヘミア地方も、スロヴァキアと接する東部のモラヴィア地方も、スロヴァキアを含めてオーストリアのハプスブルク帝国の直属領下にあった。ゲルマン文化とスラブ文化がぶつかり合うこの土地で育まれた作曲家こそが、ベドジフ・スメタナ(1824-1884)とアントニーン・ドヴォルザーク(1841-1904)である。どちらの作品にも、ボヘミアの民族色豊かな作風が豊かな実りとなって息づいている。17歳違いのこの2人の作曲家の作品は、19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて「チェコ国民音楽」がいかにあるべきかという論争に巻き込まれてゆく。今となってはどちらも19世紀のチェコを代表する、豊かな音楽であることに変わりはないが、真にチェコの魂を具現させたスメタナと、保守的な形式主義者のドヴォルザークという対立構造が、当時はまことしやかに唱えられていた。この構図はそれなりに、2人の作曲家の特質を捉えていて、ここでドヴォルザークに使われた「保守的」「形式主義」という言葉は、ゲルマン音楽の伝統に則っているという意味であり、ローカリティの強いスメタナの音楽と比較して、より広く受け入れやすい普遍的な語法で書かれていたのが、ドヴォルザークの音楽になる。
ドヴォルザークは1841年にプラハ近郊のネラホゼヴェスという小さな村に生まれ、幼少時から音楽の早熟ぶりを発揮した。その後モーツァルトやベートーヴェンといったウィーン古典派、そしてシューベルトなどの初期ロマン派までの音楽の書き方を基礎から学ぶことで、作曲家としての能力を磨くことになる。今日、私たちが多く耳にするドヴォルザークの曲は、「スラヴ時代」と呼ばれる国際的な名声が高まった後の作品であるが、それ以前のものは民族的な躍動感はまだ脇役であり、より全面に押し出されるのは、古典的な構成感と後期ロマン派風の分厚い和声だった。1874年(33歳)には、オーストリア文化教育省が実施していた国家奨学金に採用され、審査員であったJ.ブラームスや、音楽学者のE.ハンスリック、出版者のF.ジムロックの知遇を得ることになり、そんな中でドヴォルザークは、自分にしか書けない故郷のボヘミアに根ざした音楽に目覚め、それを確立するのだ。有名な《スラヴ舞曲集》の第1集をジムロックから出版するのは1878年(37歳)のことである。
本日はドヴォルザークの名曲が3曲並んだ。完成した年と共に列挙すれば、プログラム順に、《序曲「謝肉祭」》が1891年(50歳)、《ヴァイオリン協奏曲》が1880年(39歳)、《交響曲第9番「新世界より」》が1893年(52歳)となる。何れも30歳代の終わりから50歳代にかけての作品になるわけで、脂が乗り切った、正に円熟の名作である。「作曲家の肖像画」というタイトルにふさわしく、ドヴォルザークの音楽の真髄をお楽しみいただけるだろう。かつての“ドボルザーク”から“ドヴォルザーク”で定着してきた日本語での表記だが、最近は“ドヴォルジャーク”と書かれることも増えてきた。より忠実にチェコ語を写し取れば、“ドヴォシャーック”となるそうだが、この耳慣れない複雑な発音の響きが彼の音楽を受け取る鍵になる。本日、大阪交響楽団の定期演奏会に3回目の客演となる指揮者の秋山和慶は、「ボヘミア的な哀愁と同時に情熱的な息吹を感じとっていただけたら」と述べた。「新世界交響曲」が定期演奏会で取り上げられるというのは、このところ大阪交響楽団が演奏している「知られざる名曲」とのギャップが激しいが、有名曲だからとあなどらずに、もう一度つぶさに対峙すると、おどろくほど豊かな響きが伝わってくる。今宵は、ドヴォルザークを聴く醍醐味をたっぷりと味わっていただけるだろう。
A.ドヴォルザーク:
序曲「謝肉祭」 (自然と人生と愛)作品92
《序曲「謝肉祭」》は、序曲3部作「自然と人生と愛」の第2曲として作曲された。第1曲は《「自然の中で」op.91》、第3曲は《「オセロ」op.93》だが、今日では単独で演奏されることが多く、この《序曲「謝肉祭」》の演奏機会が最も多い。渡米前の1892年4月に行われたプラハでの演奏会で、3部作がまとめてドヴォルザーク自身の指揮により初演された。3曲とも具体的な標題が付されていて、「自然」をあらわす動機が共通して用いられることで、互いの連関を図っている。《序曲「謝肉祭」》には、R.ワーグナーの《タンホイザー》の影響が指摘されてきたが、確かに中間部の静かな部分で、あからさまな箇所もあって興味をそそられる。この時代の作曲家にとって、ワーグナーの呪縛からいかに逃れるかは、一つの大きなテーマでもあったのだ。賑やかな幕開けが、正にカーニバル(謝肉祭)そのもので、タンバリンが活躍するのも印象に残る。浮き立つリズムが華やかな響きを引き立てて、実に興奮させられる音楽である。
A.ドヴォルザーク:
ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53
ドヴォルザークの協奏曲と言えば、何をおいても、晩年に書かれた《チェロ協奏曲 ロ短調》(1895年完成)が群を抜いて有名だ。一方で、1作ずつある《ヴァイオリン協奏曲イ短調》と《ピアノ協奏曲 ト短調》(1876年作曲)はあまり演奏される機会に恵まれないが、ところがどうして、どちらも味わい深い作品である。この《ヴァイオリン協奏曲》はヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの依頼で書かれ、1879年にいったん書き上げた後、一部を書き替えて80年に仕上げている。さらに、82年に手を入れたものが決定稿となった。ヨアヒムといえば、ブラームスの畏友として知られるが、ブラームスがヨアヒムのために《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調》を書いたのが1878年のことだから、ドヴォルザークがこれを意識しなかったはずはない。先輩に倣って、ヴァイオリン独奏の細部には、ヨアヒムのヴァイオリン奏者としての助言が事細かに反映されている。ブラームスはドヴォルザークにとって心から敬愛する先輩作曲家であり、「ドヴォルザークがゴミ箱に捨てたスケッチを集めるだけで、いくつもの主題を書くことができる」とブラームスは言って、ドヴォルザークの才能を賞讃していた。《ヴァイオリン協奏曲 イ短調》は造作こそ堅牢なブラームス作品の影響が見え隠れしているが、我々を引きつけてやまない歌心あふれた旋律が数珠つなぎとなる様子は、メロディ・メーカーとしてドヴォルザークの面目躍如たるところである。なお初演は1883年に作曲者の指揮によりプラハで行われたが、この時の独奏者はヨアヒムではなかった。
3つの楽章で構成される。第1楽章〈アレグロ・マ・ノン・トロッポ〉が激しさと躍動の中で始まると、すぐに情熱的な独奏ヴァイオリンが、これを引き継ぐ。オーケストラと独奏が対比されるように描かれるが、独奏ヴァイオリンが奏でるメロディは、うねる響きの中で悶えるようにほとばしるのだ。音楽は第1楽章の中では完結せず、切れ目なく第2楽章〈アダージョ・マ・ノン・トロッポ〉へと続く。切ないメロディが独奏ヴァイオリンを軸に語られ、高まる情感は旋律にまとわり付いてくる。一転して、第3楽章〈アレグロ・ジョコーソ,マ・ノン・トロッポ〉は、チェコの民族色で素直に彩られたフィナーレだ。冒頭から息づくのは、「フリアント」と呼ばれる情熱的な舞曲で、ドヴォルザークの音楽にしばしば登場する印象的なリズムは、2拍子と3拍子が交替する特有の鋭さを持つ。対照的に中間部のロマンティックな場面では、「ドゥムカ」と呼ばれる哀悼歌の様式になる。再び「フリアント」が戻ってくると、さらに音楽は高揚し、血湧き肉踊るクライマックスへと突き進んで大団円となるのだ。
A.ドヴォルザーク:
交響曲 第9番 ホ短調「新世界より」作品95
ドヴォルザークの交響曲は9曲あるが、最も演奏機会が多いのがこの《第9番》で、続いて《第8番》、少し回数が減って《第7番》、さらに限られた機会に《第6番》が取り上げられる。残りの《第1番》から《第5番》の5曲が演奏されることは、稀だと言ってよい。だが、こうした蓄積の上に《交響曲第9番 ホ短調「新世界より」》が成立したことは、今一度再認識する必要がある。24歳の時に書いた《第1番》(1865年作曲)の冒頭に響く和音も、すでに「これぞドヴォルザーク」という特徴的なボヘミアの薫りがするのだが、その後に展開されるワーグナーばりの分厚い響きに彩られて、音楽はやや飽和気味になっている。これと比較すれば《第9番》の巧妙な第1楽章の導入部など、経験を積み重ねた上でないと書けない熟練した音楽だと言えるだろう。
1892年9月にドヴォルザークはアメリカへ渡った。度重なる要請の末、ニューヨーク・ナショナル音楽院院長就任を受諾したのだ。音楽院近くに居住まいを決めた彼は、早速、鉄道の駅を見つけて機関車好きぶりを発揮したそうだが、見知らぬ異国での暮らしは、想像以上のストレスを与えることになった。
《交響曲第9番》はアメリカに到着して4ヶ月ほど経った1893年(52歳)1月に着手され、同年5月には書き上げられている。この次に取り組んだのは《弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」》だった。同じ年の12月にニューヨークのカーネギー・ホールで《交響曲第9番》は初演され、熱狂的な喝采で迎えられる。大絶賛だった。ドヴォルザークのアメリカ滞在の中でも、最も幸せで充実した一時だったのは間違いない。チェコに帰国後の1896年2月にウィーンで初演された時も聴衆の賞賛は凄まじく、尊敬するブラームスの横に座ったドヴォルザークは静かに耳を傾けていたそうだ。
この曲にはアメリカの音楽、特に黒人霊歌の影響があると初演当初から言われてきた。確かに異国で聞いた新鮮なメロディが作品の随所で開放的に響いているのだが、ドヴォルザークは旋律をそのまま引用したのではなく、自身の語法の中でかみ砕いてから用いていて、音楽の前面に押し出されるのは変わらぬチェコ民族に根付いた音楽だ。決してアメリカそのものを描いたものではなく、あくまでも、新世界=アメリカ"より"書かれた、旧世界=ヨーロッパへ向けての音楽となっている。
4つの楽章で構成される。各楽章に共通した主題を用いる循環主題の使い方は実に鮮やかで、それでいてさり気ない。第1楽章〈序奏:アダージョ → 主部:アレグロ・モルト〉では、霧の中に浮かび上がるような序奏の中から、勇壮な響きがわき上がる。ピッコロが1フレーズだけに使われたり、2番フルートが所々メロディを受け持つのも凝っている。第2楽章〈ラルゴ〉は何と言ってもイングリッシュ・ホルンが奏でる哀愁に満ちた旋律が有名だ。ただし、このメロディが映えるのも、巧妙なオーケストレーションがあってこそ。第2楽章でのみテューバが登場して、しかも演奏する音符の数が14だけという、限定された使い方をしている。打って変わって喧噪の第3楽章〈スケルッオ,モルト・ヴィヴァーチェ〉は、活気に溢れたリズムが息づいて、豪快にオーケストラが鳴る。第4楽章〈アレグロ・コン・フォーコ〉は文字どおり火を吹くようにダイナミックな音楽だ。全曲を通じて1度だけ鳴らされるシンバルが効果的に響く。フィナーレの最後は、和音が管楽器で長く引きずられるように残されて、ユニークな幕引きとなった。
1894年にジムロックが出版した譜面は、ブラームスが校正しており、明らかにドヴォルザークが意図しない音符が記されていた。その後自筆譜に基づく版なども出版されるが、未だに決定版と言えるものはなく、楽譜の細部には齟齬が生じている。
(C) 小味渕 彦之(音楽学、音楽評論)(無断転載を禁ずる)