日本音楽界の重鎮であり、わが大阪交響楽団のミュ-ジック・アドバイザ-としてまさに「現役」真っ只中の外山雄三さん。その外山さんの音楽人生を、自らの言葉で語っていただく連載シリ-ズの第6回。今回は前回の続きと、ウィーン留学の話です。【聞き手:二宮光由(楽団長・インテンダント)】
二宮(以下、N) ロイブナーの後はウィルヘルム・シュヒタ-なんですけど、シュヒタ-とは直接は関わりはありましたか?
外山(以下、T) ありました。ウィルヘルム・シュヒター(1911-1974)さんは、全部自分の思い通りにならないと承知しない。ですから、僕が確か大阪フィルと大阪で演奏会をしているのを知っていながら、「今日の練習に外山がいなかったら俺はこの音楽会をやらない。」なんて言って、僕は大阪フィルの練習をキャンセルして東京に帰ってN響の練習に出る。何か用があるわけではないんですよ。翌日、大阪に帰るつもりでいたら「明日の演奏会は外山がいなかったら俺はやらない。」てなことを言う、僕の感覚として言えば、嫌な奴。簡単に言えばね。でも能力あったんだと思います。あの(ヘルベルト・フォン・)カラヤン(1908-1989)が副指揮者としてシュヒターを非常に重用して、N響に推薦したわけですからね。能力はあったんでしょう。それとシュヒターがN響の定期を指揮するその時に必ず僕に練習に来いって言うんです。練習に来いって言うだけなんですが、朝行くと「俺は弦楽器を練習するから、お前は管楽器を練習しろ」って。別の部屋で僕が管楽器を練習していると、途中でコンコンって来て「お前、管楽器の練習しろって言ったけど、木管と金管と一緒にやってるだろ、別々にしろ!」そんな部屋もあるわけないし、僕がひとりだから出来る訳ないんだけど、それで何時何分までにやれとか、要するに自分がいかに偉いかを常に確認したかったんじゃないですか。N響の人たちもだんだんそれが判ってきて、大変だなぁみたいな空気の中で仕事させてもらえましたけど。そういう人でした。能力はあったんじゃないかと思います。それと1960年のN響の最初の世界旅行の時に、要するに日本のオーケストラがヨーロッパにわざわざ出かけて行くんだから、ヨーロッパ人の指揮者じゃなくて日本人の指揮者でって言うこともあっただろうと思いますし、有馬大五郎先生が、「岩城宏之と外山雄三を指揮者として連れて行く」とお決めになったこともあって、彼の出番があんまりなかったので非常に機嫌が悪くて、ということもありました。有馬先生のお考えは、いろんな意味で当然だったと思いますけどね。日本のオーケストラでもやっぱりドイツ人じゃなきゃ指揮はダメなのかと思われちゃとんでもないですけどね。いくら1960年だって、ということがありました。だからシュヒターさんという人の能力、音を聞き分ける能力、あるいはいろいろ楽譜上で読み取ったことをオーケストラの上で整理する能力、それはすごいと思いますが、でも指揮者として凄かったんですかと聞かれたら、うーんと黙ります。だからドイツのオーケストラは、ラジオで放送することが主な仕事だった時代があります、超一流を除いて。ということはどういうことかって言うと、ミスが許されない、決してミスしない。録音は何回でも録り直すということをN響に経験させてくれたのはシュヒターです。練習の初日の初めから全部録音しました。それは何のためかっていうと、シュヒターさんがそれを全部毎日聞いて、「あそことあそことあそこは具合が悪い、録り直しをやるぞ」ってなことだったんです。シュヒターさんはもちろん耳のいい人でしたけど、その上録音もチェックしてという厳密さなんでしょうね。
N そのN響に入られてから留学なさるまでの間、何人かの世界的な、著名な指揮者が客演で来られましたよね。例えばカラヤンとか。その指揮者に対するエピソードみたいなものありますか?
T 当時N響の練習場は荏原にありましたから、指揮者たちはみんな帝国ホテルに泊まりました。朝、私が帝国ホテルまでN響の車で迎えに行って、荏原まで一緒に車に乗って行く。結構時間がかかりますから、黙ってるわけにもいかないから、なんか少しは話をしたりするんですが、非常に感じが悪くて一言も口聞かなかったなんて人はいません、正直言って。いろいろと聞きたがる人はいました。どういうことかというと、N響の中のことではなくて、どこ行ったら美味いフランス料理が食えるかとかね、面白いナイトクラブはどこだとかね、要するに世間話、雑談です。ものすごく嫌だった指揮者ってあんまりいませんけど。非常に不愉快な記憶に残ってるって人はいません。今考えればそれはね、こんな遠い国へわざわざ呼ばれて来たんだから、そこで不機嫌になってみせることもなかったんだと思いますが。不愉快とは言いませんが、必ずしも愉快とは言えないかなっていう位の感じは常任指揮者としてきたシュヒターで、念のため申し添えますが、シュヒターは非常に能力の高い副指揮者でした。だからカラヤンが彼を信頼していたっていうのは解ります。でも人間として僕は好きにはなりませんでした。良い悪いじゃなくて人間として好きになったというか信頼できたのは、自分が直接教えていただいたせいもあるけどロイブナー先生。それと面白かったのはエルネスト・アンセルメ(1883-1969)。もうとにかく、おしゃべりが止まんないんですよ。もう羽田、当時は国際線も羽田に着いてましたから、羽田に着いてホテルに行くまで、とにかく一方的にわーって喋り続ける。初対面ですよ。しかもこっちが面白がるようなことを話題にするんです。例えば誰とかはどっかで振り間違えたそうだとか、ほんとに面白い人でした。スイスロマンドと一緒に来たのかな?やたらよく喋るのでびっくりしました。
あとは誰だろう、カラヤンもまあ、カラヤンは大したことない話でも、例えば僕に話しかける時も「ちょっと」って、人のいないとこ連れてって、低い声で、それこそ極端に言えば「明日は昼飯なんにしようか?」みたいな。そういう格好にするんです、いかにも重要な話をこいつとしてるぞ、みたいに。だから最初にカラヤンがN響振りに来た時に、N響のメンバーの間ではカラヤンの出演料が非常に高いそうだっていうニュースが前もって流れていたので、「カラヤンは高級ホテルに泊まって1万円札でケツ拭いてるそうだ」とか、それこそ人様には言えないような話が伝わったりしたことがありますけども、N響に来た指揮者で非常に不愉快だったって人はほとんどいないんじゃないかな。みんなそれこそこんな遠くまで呼ばれて来てるから、それぞれのなにか思い入れというか思い方があったんじゃないかなと今になってみると思います。
N ストラヴィンスキーは?
T イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)はね、僕はたまたまウィーンに行っていて、居なかったなぁー。
N あーっ、今となっては残念でしたね。
T そうなんです、ほんとに残念です。でもN響の人たちの話ではね、ロバート・クラフト(1923-2015)と言う助手が一緒に来ていて、練習は全部クラフトがやって、ストラヴィンスキーの指揮は本番だけ。だからクラフトは、ストラヴィンスキーが何をやってもちゃんとできるように仕上げてたようですね。ストラヴィンスキーで言えば、僕がN響入ってオケ中のピアノ弾くってことになった時に、えーって思ったのは、『火の鳥』のオーケストラパート譜で、戦前に、N響が、もちろん貸し譜です、借りてそのまま返さないでずっといたんですよ。それはねN響だけの話じゃなくて、NHKもNHKのライブラリも本当はあるはずのない楽譜が山のようにあって、音楽著作権協会の国際調査が来て、それで全部はじき出して整理したみたいですよ。日本に著作権と言う思想というか感覚がなかったから致し方ないことですね。僕も戦前の出版社の『火の鳥』のパート譜でN響でピアノパート弾きました。それには今思えば前にそのパート譜を弾いた音楽家のサインが3つ4つありましたね。
N クリュイタンスは留学前でしたか?
T アンドレ・クリュイタンス(1905-1967)は後だったかなぁ?でもね僕は日本でのクリュイタンスっていうより、ウィーンでシンフォニカを振ったクリュイタンスが記憶に残ってる。なぜかっていうと、園田(高弘)さんがベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番をお弾きになった。なので、「うーん、クリュイタンスみたいな巨匠と園田さん弾くんだ」と思って。クリュイタンスって意外にドイツ方面で人気ありましたから。
N 外山さんはその後ウィーンに留学されますけれど、留学期間は何年の何月からでしたか。
T 1958年の12月から1960年の5月位じゃないですか。
N じゃあ1年半ぐらいですかね。
T そうですね。
N 60年の5月に、オットー・クレンペラー(1885-1973)がフィルハーモニア管弦楽団とウィーンに客演してるんですよね。
T うん、観ました。
N ベートーヴェンだった。
T そうです、ベートーヴェン・ツィクルス。僕が聴いたのはベートーヴェンの3番だったと思いますが、とっても印象に残っているのは、お客様が圧倒的に年配の方たちだった。おじいさん、おばあさんばっかりで、あのウィーン風の、男性が女性の手を取ってキスするでしょ、みんなかっこだけやってる。それがおかしくてね、記憶に残りました。クレンペラーはその後もう一回聴いてるのかな?でもそれはポディウムジッツ、つまりステージ上の席で観たんですが、もう半身不随でしたから鬼気迫るという感じでした。
N ウィーンのオペラハウス、国立歌劇場はそのころカラヤンが芸術監督でしたが、なにか印象に残った公演とかありますか?
T ワーグナーをカラヤンがまとめてやろうと思っていた時期で、演出も美術もカラヤンが自分でやったという時代でした。それはどこまで前の人と違うのか僕は前をちゃんと観てないから知りませんが、ともかく自分の意思でというか、自分のカラーで統一しようという元気なカラヤンですから、それはそれで僕はとても面白い。面白く、楽しく、ワーグナーというものに接しました。『トリスタンとイゾルデ』はハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)で観たのかな?印象に残ってるんですが、他は『ワルキューレ』とかそういうものはカラヤンで観ました。カラヤンはなんか古いもんばっかりやってちゃいけないんで、新しい現代オペラをやらなきゃみたいな、そういうことも時々ありましたけれど、でもやっぱりワーグナーだったり、ベートーヴェンだったり、モーツァルトだったりするのは、良い上演になっていたと思います。僕は個人的にはクナッパーツブッシュが夏のミュンヘンでやった『トリスタンとイゾルデ』が印象に残っていて、ウィーンのシュターツオーパー(国立歌劇場)だとご存知のように身を乗り出さないと指揮者が見えないじゃないですか、当時のミュンヘンはまだプリンツレゲンテン劇場だったので、指揮者がよく見えるのでとても面白かった記憶があります。
N マックス・ヨーゼフ広場にある現在の劇場(ナツィオナール・テアター)は1963年に完成ですからね。
T ああそうですか。
N なので、外山さんの留学時代はまだプリンツレゲンテン劇場だったというわけですね。
T そうなんですよ。新しい劇場はいいですか?
N ほぼ昔と同じような馬蹄形でして…。
T あっそう。
N ただ上の階は桟敷席じゃなくて何列かになってますが…。
T まぁその方が合理的だよね。
N ですから今はもうほとんどの上演がその劇場でやっていて、プリンツレゲンテン劇場では年に数本ぐらいになってます。
T それは懐かしいから行きたいって言う人もいるだろうしね。
N それにプリンツレゲンテン劇場は1000席ほどなんですね。ナツィオナール・テアターは2100席ほどありますから、経済原理で行くと…、ですよね。それでも夏の音楽祭は新しい劇場が完成してからもしばらくはプリンツレゲンテン劇場でやってた時代があったみたいですが、今は1~2本のオペラがあるだけになっています。
T そうでしょうね。
N 装置を動かすだけでも大変ですから。1960年の6月に留学を終えて帰国されますけど、これは船で行かれたんですか?
T いえいえ飛行機です。もちろん。外国へ船で行ったことはないです。
N 行きも帰りも。
T はい。
N 当時何回位給油のためにストップするんですか?
T えーとね、僕が1958年12月にウィーンに行く時は北極を通過するというのが話題になるような時でした。だから北極の上を飛んだんですね。で『この便は北極の上を飛びました』っていう書状みたいなのを全員にくれました。そういう時代でした。航空会社はSAS(スカンジナヴィア航空)です。JALなんか飛んでなかったのかな。
N アンカレッジで経由ですか?
T そうです、そうです。アンカレッジからどっか、オランダのどっかだったんじゃないかな。それでウィーンに行ったのかな?忘れました。
N 帰りも同じようなルートで?
T そうでしょうね。
N 20時間以上。
T かかりますね。行きの飛行機の時に乗り合わした日本人で記憶に残ってるのは、ひよこの雄雌を選り分けられる職人さん達4、5人が一緒で、その方々は「自分たちはひよこの雄雌を選り分けるために行くんだ」って仰っていました。どこ行ったのかな?オランダだったのかな…。
次号の【音楽の風景】は、お休みにいたします。次回は、1960年のN響世界一周演奏旅行の話からスタートいたします。
「プログラム・マガジン」2018年度9・10月号掲載